世界遺産が3つあるポーランドのクラクフのスピリチュアル旅行





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4月のベルギーでのテロが起こった後、熊本地震も発生し、自粛して旅行をやめるかどうか考えました。

行きたいと思える場所も浮かんで来なかった為、暑いキプロスで結婚記念日とマイケルの誕生日をお祝いしようと思っておりました。

全くもって、ポーランドに行く気持ちもなかったのですが、涼しいところに行きたいという気持ちだけで、行先をポーランドクラクフに決めました。

行くと決めたのですが、どんなところかもあまり調べず行きました。

遠い昔、ペンパル(Penpal)と、手紙で遣り取りしていたペンフレンドがポーランドの出身だということを思い出しました。

また、シドニー時代、お部屋を借りていた大家さんもポーランドの出身だったことを思い出しました。

ポーランドで有名な音楽家と言えば、ショパンということも思い出しました。

ゆっくり出来るかなと思い、クラクフに7日間滞在することに決めました。

移動して、首都のワルシャワに行くとなると、疲れそうなので、クラクフのみの滞在で、便利の良いホテルのみを探し、あとは、行ってから考えるという予定を入れない旅行スケジュールにしました。

マイケルの会社で働くポーランド人女性はクラクフから電車で30分ほどのところの出身らしく、いつも6月にキプロスから帰っているということだった理由は、6月は比較的雨が降らず、天気も良いらしいので・・・。

今年の6月の天候は雨が降るという天気予報でしたが、いつも雨が降っていても、傘を買うと使うことがなく、晴れることが多いので、晴れることを願って傘を持たずに行きました。

初日の天気予報は雷雨と予想されていましたが、空港に到着してびっくり、暑い!東欧だから寒いと思っていましたが、暑い!マイケルには、私が「冬服も持参した方が良いと言ったので、持って来たが必要なさそうだね。」と、苦笑いされてしまいました。

ホテルはロケーションが抜群の4つ☆ホテルに宿泊を入れました。

ポーランドの所得水準が良く分かりませんが、日本の安い5つ☆ホテルと値段があまり変わらないのでびっくりです。

なぜか、人の流れが多いのか、人気が上昇しているのか、ホテルを取るのにも苦戦しました。

着いた日はゆっくりしようということでしたが、下調べを全くしていなかったので、「マイケルの誕生日は何をしたい?」と聞くと、「お任せ!」の返事が返って来ました。

まずは、旧市街に行こうと言って、地図を持って、レセプションで印を付けて貰い、出発しました。

迷いながら、歩くこと5分ぐらいで、大きな広場と馬車、タイムスリップをしたかのような古い景色はまるで、アルメニアのヤラバンを思い出しました。



マイケルの誕生日には、ベィエリチカ岩塩抗に行くことにしました。

ホテルから頂いたパンフレットの料金があまりにも高かったので、自分たちで、バスで行くことにしました。

ホテルの近くのバス停で304号のバスに乗れば良いと言うことだったので、そのバス停を探して、キョロキョロしていると、ポーランド人のおばさまがやって来て、「私は英語が出来ないけど、どこに行きたいの?」と聞いてくれました。

「ソルトマインに行きたいのですが、304号のバスに乗りたいのです。」と言うと、手を引いて、近くまで連れて行ってくれました。

バスの運転手さんに訊ねると、あと5分後に出発するというので、往復のチケットを購入しました。

30分ほど、のどかな景色を見ながら、Zabytkowa Kopalnia Soli w Wieliczece ヴィエリチカ岩塩抗の看板が見えました。

クラクフから15キロのあるヴィエリチカという町。

2千年前には海だった場所で、地溝変動で陸となり、海水が蒸発して巨大な塩の層が出来たそうです。

1250年頃から1950年代まで稼働していた大規模な岩塩採掘場が地下に残されています。

岩塩抗は、地下300メートル、総距離300キロというアリの巣のような抗道が残っています。

広々とした巨大な礼拝堂を含めて約40もの教会、年に一度試合が行われるサッカーのコートまでもあります。

ヴィエリチカ岩塩抗は、1978年に初めて世界遺産に登録された12の世界遺産のうちの1つです。

岩塩抗にはレベル340段の階段(地下64メートル)を下りて行きます。

グループで下りて行くのですが、マイケルは眩暈の持病があるので、一番、最後にと言っていたのですが、他の人達も最後が良いのか、兎に角、皆さん、早い早い、ドンドン、階段をぐるぐる回りながら、下りて行きました。

ガイドの人と一緒に20以上の部屋を見て、3キロほど歩きました。

白い岩塩が至る処にあり、舐めてみると、とてもしょっぱい(当たり前ですが)、3時間ほど歩き、お土産のセクションで終了。

地下にはとても清潔なトイレもありました。

同じグループの中国人の若いカップルはレストランで食事をしていました。

私は塩のお土産を見て購入しました。

ポーランドで買い物すると、いつも「どこから来たの?」と聞かれて、「サイプロス(キプロス)」と言うと、3回ぐらい聞かれてしまいした。

多分、「サイプロス?どこ?」と思っているんだろうけど、「どこから来たの?」と聞かれたので、きっと、「日本」と答えを待っていたのかなぁ?と思いつつ、買い物したり、ご飯を食べる度に、「どこから来たの?」と聞かれて、「サイプロス」と答えていました。

マイケルの誕生日のイベントとしてのヴィエリチカ岩塩抗を選びましたが、マイケルは感激しながら写真を撮りまくっていました。

次の日は、ユダヤ地区に徒歩で行きました。

色々な人に、「なぜ?カズコはユダヤに興味がそんなにあるの?」と聞かれるぐらい、ユダヤ関係、イスラエル等も幼少時代から興味があります。

まだまだ、研究は続いています。

その日は、天気が良いとの事でしたから、傘を持たずにブラブラとユダヤ地区に行きました。

映画監督のスピルバーグの『シンドラーのリスト』(英: Schindler's List)は、その地区に住んでいたポーランドユダヤ人(収容所に行かずに、オーストラリアに移民)の実話を描いた映画で、ホロコーストに関する映画の代表作として知られています。

資料館を見た後に、暑かったので、コーラを飲み(数年ぶりに飲みました。)歩いて帰っていたら、凄い雨で3回雨宿りをしました。

傘を買おうかと思いつつ、ホテルに帰れば傘があるので、必要ないかな?と思いながら、結構時間を掛けながら、帰り、その後は、朝から雨が降っていた日がありましたが、振ったり止んだりでしたので、傘は使いませんでした。

雨が朝から降り続いていた日は負の世界遺産であるアウシュビッツに行く予定で、オンラインでチケットを先にキプロスから買っていました。

しかし、自分達でもたもたしながら、電車やバスで行くよりは、行き帰りのツアーのマイクロバスで行く方が、良いかもと思いましたので、急遽、日程を変更しました。

実のところ、気が進まなかったのですが、負の世界遺産を見ることが出来て、良かったです。

アウシュビッツ博物館はポーランド女性のガイドさんと一緒に見学しました。

3時間30分ぐらい掛けて、アウシュビッツ博物館とブルケナウ(アウシュビッツ2号)を見学しました。



広島県民で小学生1年から、はだしのゲン、広島原爆資料館等、また、夏休みの最中に歌を歌いに行かなければならない登校日が8月6日にありました。

色々な国の原爆投下後の映画も見て来ました。

去年は、アンネの日記で有名になったアンネフランクが住んでいた家にも3時間待ちで見学しました。

内心、ゆっくりしようと思って旅行に来たのに、負の世界遺産を見に行く必要があるのか・・・。と考えたりしましたが、やっぱり、行くことにしました。

戦後、71年という時が流れていますが、戦争という名目の悲惨な出来事でユダヤ人がその場所で殺されてしまったことを知る必要もあったのかと思ったので、行きました。

ここで、すこし歴史を知らない人に、お伝え致します。

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アウシュビッツ収容所は5年間第二次世界大戦中ナチが占領した国々の人々に恐怖心を呼び起こしました。

1940年にポーランド人の政治犯を収容するため設立されました。

当初はポーランド人に対して暴力手段や根絶の道具として使う予定でした。

時の経過とともに、ナチは様々な国々の市民、とくに、ユダヤ人やソ連軍の捕虜、ロマ(ジプシー)など欧州全域の人々を送り始めました。

収容所の中には、チェコ人やユーゴスラビア人、フランス人やオーストラリア人、ドイツ人などもいました。

収容所が解散されるまでポーランド人の政治犯はここへ追放されました。

1939年9月の戦闘後、オシフィエンチム市や周辺の町はドイツ第三帝国内に編入され、ナチはそれと同時に名前をアウシュビッツと変えました。

1939年末にはヴロツワフのSS(親衛隊)と警察の司令部に強制収容所建設の構想が持ち上がりました。

シレジア地方の刑務所が被収容者で溢れていたことが収容所の建設の動機でしたが、もう一方でシレジアや総督府(占領下ポーランド)における今後のポーランド人大量逮捕の動きに備える必要があったのです。

いくつかの特別委員会が収容所の立地に適した場所を探し始めました。

そして、オシフィエンチムに戦前あった軍舎の廃墟が選ばれました。

その場所は鉄道もあったので、輸送に適したこともあり、その場所を強制収容所として、その場所に送られたら、生きて帰ることが出来ない場所になりました。

アウシュビッツ強制収容所ポーランド人や他の民族の最大の収容所であり、監禁や飢餓、重労働、生体実験や集団的、または、個別に即刻の処刑を強いられました。

1942年から収容所は最大の欧州のユダヤ人虐殺施設となりました。

アウシュビッツ収容所に連行されたユダヤ人の大部分は登録や囚人番号なく到着後すぐにガス室で殺されてしまいました。

そのため、正確な犠牲者数を定めることさえ困難です。

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なぜ、ユダヤ人というすべてを抹消しようとしたのか、彼らは家畜以下の扱い後に、殺されてしまっています。

殺された後に、歯に金歯があれば、こじ開けて取り、女性の髪の毛は生地として売り、灰になった骨さえも、家畜の肥料として撒いたという話を聞き、戦争という名目で無理矢理働く奴隷を囲い、死ぬまで働かされた人々を想うと、悲しい気持ちを通り越して、胸に手を併せることしか出来ません。

ただ、安らかなエネルギーだったことが、何より、救われました。

お天気も日程を変更したことで、晴れていたので、傘も必要なく、彼らが生きた場所を見学することが出来ました。

ポーランドの京都と呼ばれているクラクフでの旅行先では夜はとても涼しく、今年のパフォスは異常に暑いので、帰って来てから、すでに夏バテです。

とても寛ぐことが出来ました。

寛ぎ過ぎて、体重計に乗って驚いたほどです。笑

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