努力は報われないのか



日々の生活で人一倍に働き、倹約し、家族の為に服や靴も新調せず、せっせと働き蜂のように休む暇もなく、頑張っても誰かに感謝されることもなく、消えてゆくだけの時間を空しく感じる人も少なくはないでしょう。

多くの主婦の方々は家事に追われ、食事を作って家族に食べて貰っても、また、時間が経つと、また、夕食を作ったり、片付けたりしなければなりません。

綺麗に片付けてもその側から、汚していく子供もいれば、終わりのない義理の両親の介護まで請け負って、掃除をしても、また、同じ繰り返しの日々が続くことはまるで、苦行と思えるでしょう。

会社で働く方々も同じように、困難な状況を達成して契約を結んだりしたのに、会社の判断で自分以外の上司に成果を持って行かれたり、また、取引そのものを破棄されてしまうこともあるでしょう。

また、長年、苦心して開発した製品にも関わらず、他社にその新製品を奪われてしまった上に、先に特許までもされてしまっていた為に、御蔵入りになってしまい、リストラされてしまったり、左遷されてしったり等、日常茶飯事に目まぐるしく、理不尽な出来事が起きています。

さらに、長い人生の全体でも、努力してようやく手にした地位や財産、また、愛する人と結婚は出来たが、手にしたものをいつ失うことになるかは分かりません。

心の準備が出来ていない状態で、そうした出来事は訪れることがあります。

喪失体験によって、すべてを失ってしまうことで、私たち人間は悲しみや心の痛みを感じ、その時点では「この世には神様など存在しない」というような苦痛とともに、絶望を感じるかも知れません。

しかし、望む物を獲得し続けても、平等に訪れる「死」という喪失から逃げることは出来ません。

獲得することだけ、勝ち続けることだけ、物質的に豊かになり続けるだけを目的にした人生なら、失われることによってゼロ時点に立つことは生きる意味さえも否定してしまうことになることでしょう。

ギリシャ神話に登場するシーシュポスのお話を致します。



シーシュポスは自分の犯した罪によって、罰を受けることになります。

彼はタルタロスで巨大な岩を山頂まで上げるよう命じられた(この岩はゼウスが姿を変えたときのものと同じ大きさといわれる)。シーシュポスがあと少しで山頂に届くというところまで岩を押し上げると、岩はその重みで底まで転がり落ちてしまい、この苦行が永遠に繰り返されます。

大人になって待ち受けていたモノは、「意味もなく、希望もなく、ただ続いているだけの、つまらない人生」ではないか?と思う人も少なくないと思います。

それが神の罰であり、押し上げても、転がり落ちてしまう巨大な岩のように、終わることのない無益な苦行はいつまでも続くのか?と、悲観してしまうことでしょう。



しかし、禅のマスターである道元師は、日々の生活の作業は苦行ではないと言っています。

道元師は、中国で修行僧たちの食事の世話をする炊事係のことを雑役係だと思っていました。しかし、実際には、修行経歴が長く、人望もある僧でなければ、その役目を貰うことが出来なかったのです。

米一粒の大切さ、水の尊さが分からない僧侶には任せられないというほど、重要な役であったと、言えます。

道元禅というものが誕生します。

日常の何でもない立ち振る舞いはもちろん、食事、入浴、洗面ですら仏法であるという意味です。

典座教訓には、「輝く目で見て、一粒の米も無駄にしてはならぬ。法にしたがって、米をとぎ、鍋に入れ、火を焚き、飯を蒸す。古人の言葉にいわく、飯を蒸す時は鍋を自分の頭だと思い、米をとぐときは水を身命だと心得よ」とあります。

では、なぜ、私たちは今の現在、当たり前の日常で家事などを苦痛に思うようになってしまったのでしょうか?

それは、私たちが直面している人間存在としての痛み、霊的な痛みなのではないでしょうか?

また、今、十分に生きがいや充実感を感じているからと言って、安心することは出来ません。

誰しも、心の中のどこかで、空しさが潜んでいます。

地位や健康や財産を喪失すれば、今までの努力や見出して来た「生きる意味」が無くなってしまうことになるかも知れません。

では、どのような喪失を体験しようとも、決して奪われることのない確かなものを感じて生きることは出来るのでしょうか?

また、繰り返しのように見える日常生活に意味や価値を出す生き方とはどんな生き方でしょうか?

外界に現れるすべての現実は内なる心と魂を深く結びつけています。

ですから、日々の生活の中でどのような次元と魂が結びついているのか状態が分かれば、正しく自分自身のエネルギーをリサイクル出来るようになることで、「目的」を持って生きてゆくことが出来るでしょう。



三角形のイメージで、魂と人生、生活が正常に働いているときは、「忙しいけど、元気」「平穏であるが充実している」「問題はあるが、その問題を解決する意欲はある」「現実に応えながらも、夢への挑戦をしている」「新しい開拓をしている」等の感覚を抱いているならば、自分がなぜ、何のために生まれ、生きているのか、何をすればよいのかということが、はっきりしているので、自らの使命に限りなく接しているため、悔いのない生き方を目指すことが出来るでしょう。

しかしながら、このような心の状態を持っている人も少なからずいらっしゃることでしょう。

「毎日がただただ忙しく、いつも倦怠感がある」「毎日、つまらない、退屈で充実していない」「幾つもの問題が重なり、心が落ち着かない」「夢はあるが、先送りになり、具体的に歩み出す方法が分からない」「常に誰かと比較してしまい、成功し続けることに必死になり、心は落ち着かず葛藤し続けている」「毎日を生きる事で精一杯である」等のようなネガティブな気持ちがあるようであれば、魂と人生と生活が断絶していることにより、エネルギーが湧いてこないため、自分の人生でありながら、どこか、人事のような誰かに主導権を握られたような感覚を持っているようなときは、些細な事で体調を崩してしまうこともあるので、要注意が必要です。

では、なぜエネルギーが湧き上がらないのでしょうか?

それは、あなたの日常の現実と生活と魂が繋がっていないとき、「私はなぜ?この世に生まれて来たのか?何のために生きているのか?」という気持ちを内向きに考えてしまっているからです。

つまり、生まれて来た意味を知らないままでは、最終的なゴールである場所に向かうことが出来ないため、物質的なモノや地位や名誉を継続的に保持しているときは、喜びに感じるが、それを失うことや特別な存在でない自分という人間が許せないというか、生きる張りを感じる何かがないと感じているため、平凡な人生を無意味に感じてしまっているかも知れません。

毎日、繰り返される平凡な作業でさえも、明日も同じように迎えることが出来なくなることもあるかも知れないのです。

一瞬一瞬の出会いや出来事を、人生の目的が一層明らかになる機会と受け止め、あなたの人生の目的に照らして悔いのないように生きることを信じ、今を生きて下さい。

インド独立の父、マハトマ・ガンジーは「永遠に生きる者のごとく学び、明日知る者の如く生きる」という名言を残しています。

それは、永遠の生命として今を生き、人生の目的を持ちつつ今を生きるという意味ではないでしょうか?

ありがとうございます。



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