死と生き方を考える ☆

19.5:288:350:0:0:india:center:1:1:死ぬまで現役 よいしょ! ありがとうございます。:
こんにちは!
いつもありがとうございます。
ありがとうございます。
ここ最近、新たにお友達のご紹介で鑑定依頼を受ける方々の依頼は「死者との対話」が増えております。死者との対話は霊視致しますので、透視ではないので身体が思いっきりしんどい時もあります。霊媒としてしては致しておりません。
霊視は常に自分を「無」にした瞑想中に近い状態でしますので、未浄化霊の方ですとかなり危険性があります。しかしながら、スピリチュアルワールド(あの世)にいる指導霊も霊視する際に、守護してくれておりますので、お任せで道具意識にてやっております。
さて、人は死にぎわにて、人間最後と言える最大の欲望はやはり「生命欲」ではないでしょうか、肉体が蝕まれている、または、老いて来ている中で、これから、生命という火の玉が消えて行こうとするさい、線香花火みたいでオレンジ色の炎が一瞬、一瞬とこの世から消えてなくなる光景に似ているかもしれないでしょう。
その生命欲の断絶が「人の死」ですから、死に対する悲痛の叫びは、これまで長い間に生きて来た深い想いから「生きたい」とすがり付く感情に変化するでしょう。
特に、闘病生活が長く、口から食事を通さないで、この世からさって行く魂さん達は、食べ物に対する欲求がありますから、しばらくはこの世をさ迷っていることが多い様子です。
私の亡くなった前夫も母もそうでしたが、亡くなる2週間は食べたくても食べれない。生きている喜びの中に口から食を取る事で欲求が満たされるでしょう。
前夫の場合は血小板が最後には必要なほどの状態でしたから、生きているのか死んでいるのか分らなく本人もなっていました。
この「死」こそが、人生最大の悲痛が現実に誰にでも待っています。この死生観を乗り越える為にも、死は身近なものであった日本の家族構成だった少し前から、ここ最近では世界一の長寿国と呼ばれている日本ですが、長生きすることだけがこの世の学びではありません。
病院の固いベットに寝かされて、ただ延命剤を投与されて、口から食事もされず、病院側は国から医療費を取り続け、健康にならない生きた屍を放置して、人として優しい声もかけて差し上げることなく、現代風の姥捨て山ではないでしょうか。
家族も病院にいると世間体には言いながら、お金は出すから、介護も放棄し、お腹を痛めて生んでくれた母でさえも、仕事が忙しいから、付き合いがあるからと言って言い訳しては、病院に老婆になった母の顔を見に行かない人も増えて来た様子です。
一昔であれば、三世代のお宅が普通ですから、お年寄りが家にいるのは当然ですから、お迎えが近づいて来ると、病院で検査を受けて貰った後に、家でしばらく介護している間に親族や友達とのこの世とのお別れ、そして、息をひきとる様子、その後、お通夜、霊柩車、火葬場、お墓というプロセスが合理化の為に「病院に入れておけば良し」と思う人たちが増えて行っている気がするのは私だけでしょうか。
長生きはした方が多くの気づきや学ぶことが出来ますので、長生きはしたほうが良いと思います。
しかし、病気で長生きするということは、それだけ苦しみが長引きます。
その苦しみの想念があると、死んでも苦しみが消えないときが多いのです。
つまり、死ねば、その苦しみが消えるのは、身体の痛みであって、死にざまによっては、来世のカルマ(業)になる霊もいますし、死んだことに気がつかないでこの世をさ迷い続ける未浄化霊もいます。
実際にはお医者さんから見放された治る見込みもない重病人でも、命が永延でないのに、延命の為に治療が行われ、自然にも死なせて貰えないものです。
見るも痛ましい末期患者であれば、治る見込みがないのであれば、自宅で自由に本人がしたいことや会いたい人たちもいるでしょう。
末期患者の痛みは見ていても辛いものです。本人が意識があり、安楽死を希望しても生きている病院側は本人が意識がしっかりしているのであれば、その胸の内を受け止めてあげる方がこの患者達も安らかにあの世に帰れる様子ではないでしょうか。
たとえば、私の母なども難病指定でしたから、日本に帰って話せない母に「もう〜!お母さん、頑張らなくて良いから・・・」と告げるとしばらく食べてない母は「死にたくない!」と大きな声を出していました。
その後、兄と私が話していたら、母のお父さんが現れたのが母には見え、「お父さん〜!」と叫んでいました。その前に母に「なんで、おばあちゃんが来たのに、行かない〜!」のと聞くと「死にたくない!」と言っていました。
この会話が出来る様子をお医者さんがみて驚いていました。
2週間近く、声も出ず、寝ていた人でした。
その「お父さん〜!」がお迎えに来てくれた日だったので、今日、明日には息を引き取る予定でこころの準備をしていました。
ふと、お部屋に帰ると何やら大きな器具を取り付ける用意を看護婦さんとお医者さんがしていました。私が「その器具は何ですか?」と訊ねると、無言でした。
その後、主治医に呼ばれて、兄と義理の姉と私と主治医との面談の際に、「おかあさんに長生きして貰いたくないのですか。」と聞かれました。
「もちろん、元気になるのであれば・・・。」と答えると、何やら理解出来ない説教が始まりました。兄が「ただ、命を長引かせているだけなら、母も今の状態よりあの世に行った方が良いのではないでしょうか。」と言うと、「ですが・・・。他のご家族は長生きして貰う為に色々としますよ・・・。」と主治医。
「妹は霊能者で、あの器具をつけなければ、今夜、または明日に行くと分っています。すでにお迎えに来ているし、母もこの道を閉ざすと三途の川を越えれません。」と兄が言うと、主治医は苦笑いしていました。
人の死にざまにおける、臨終のあり方は、生涯でこれほど難しいものではなく、しかし、その人の最後の想念は大変大事です。
では、何がこの大事なことを決定するでしょうか。
生きざまの立派な人は、この地球上に沢山いるでしょう。しかし、死にざまとなると、どうでしょうか。人生の最後はどうでしょうか。
ですから、臨終は人生の最も大事な行事ではないでしょうか。
死=終わりという観念で生きて来た人ほど、死ぬこと=悪いという意識になっていることでしょう。死は決して、一切の終わりではありません。
生きているということの方が肉体と言う「物体」の中に入り込み、この肉体が成長し、年を取り、病気になって臨終を迎える「生・老・病・死」を通過します。
死はもともと、大変厳粛であり、人は、この世に生きている間、どんなに辛いことがあっても、どんなに苦しんでも、死ねば、天国に行けると信じている人がいます。
また、死ねばすべてが終わると思っている自殺願望者がここ最近増えているそうですが、果たして、死ねば「本当の死」を迎えられているでしょうか。
生きているときに何ひとつ良いことがなかった、死ぬときには安らかに行きたいという人は、果たして安らかに行けたでしょうか。
何事も「こころの癖」の思いではないでしょうか。
歳を重ねている現役老人達は、病院に捨てられるぐらいなら、家で野垂れ死に死んだ方が良いと言います。
そういう老人達は、人生を精一杯に生きて来た人たちですから、死の直面でもニコニコ死んで、息を引き取る人もいます。
生きている間に誰かをねたましく思い、物質価値に拘り、常にお金さえあれば幸せになれると願い、健康なときに、自己管理もせずに食べたい放題、飲みたい放題と不摂生を重ねた、自分にも我侭な人は、人生を精一杯生きることなく、一日を無駄に過ごし、人生から甘い汁のみ吸いたがり、最後の死の直面だけが、どうして華かでありましょうか。
死とは、その人の一生のすべてを凝縮した一大事でしょうから、臨終が穏やかであるようで、それこそが、その人の人生のすべてのフィナーレと言えるのではないでしょうか。
もちろん、この世であちらに行きの切符を手にした人を送り帰すときは、寂しいし、悲しい、辛いしということは地球上に生きている誰もが遅かれ早かれ体験することでしょう。
しかし、その人の死にぎわが素晴らしい形であれば、その人はあの世でも素晴らしい活躍をして下さり、この地球に住んでいる人たちに多くのメッセージを送って頂けていることは感謝の賜物ではないでしょうか。
死は肉体から魂が離れるだけで、想念というのは持って帰れます。
ですから、肉体が無くなるだけで、死んだら性格も変わることもなく、死んだら魂が向上することもないのです。今、生きているそのままが、反映されて、あの世でも似たりよったりの生活をするだけです。
そう考えると、生きている間に沢山の気づきを頂きながら、日々の生活で精進をしながら、「死」に対しても悪いことでなく、一生懸命に生きることで、それも最後の最後、唾を飲み込むことが出来ないぐらいになるまで、そして、自分の身体はご自身が一番良くご存知でしょうから、日頃からの健康管理は心がけましょう。

お医者さんに頼るよりも、自分の身体との対話、そして、天命を貫くことで、死にぎわも多くの学びがあるでしょう。
読んで頂き、ありがとうございます。
ありがとうございます。

追伸:今回のブログは病院、お医者さんを否定するトピックではありません。夜も昼も患者さんの命を考えているお医者様も多くいらっしゃいます。ただ、そのお医者様方は現場でマザーテレサさんのように、慈悲愛のある方達ですので、治してあげているというより、一人でも多くの人が元気になって頂ければと思うこころの持ち主でしょう。
多くの方が、人事でない自分も、そして、自分の家族にもいずれ訪れる「死別」を学ぶことで、生きている人も、あの世に先に帰った人も心地よくコンタクトが取れる時代にする為に、一人でも多くの人が心霊を学ぶ機会になればと心よりお祈り致します。
ありがとうございます。