歩く聖人と呼ばれたマザーテレサ ☆

8.6:279:350:0:0:mother-teresa-01:center:1:1:無償の愛を与え続けた 歩く聖人マザーテレサさん ありがとうございます。:
こんにちは!
いつも読んで頂き、ありがとうございます。
ありがとうございます。
今朝、「テレサ」という声が聞こえました。私の友達の事かな〜?と思いつつ、無視していたら、その後、「ロザリオ」の映像が見えました。
先日書いたブログの延長のお手本になる20世紀の聖人「テレサさん」のお話をすることで、この21世紀に突入して「こころの時代」と言われるようになりましたが、テレサさんは神様の声を聞いて、亡くなるまで神様の奉仕に身を捧げた方でした。
そのテレサさんの行って来た活動を知ることで、一人でも多くの方がこころの奥に閉まっていた「内なる神様」を思い出して頂ければと思います。
さて、マザーテレサさんは、1910年8月26日にマケドニアスコピエアルバニア人夫婦の娘として生まれ、本名をアグネス=ゴンジャニボヤジューと呼ばれていました。
その後、修道女として、テレサと呼ばれ、その後の活動を通じてマザーテレサと呼ばれるようになりました。
マザーテレサの父のニコラは、建築請負業と食料輸入を共同経営で手広く営んでいました。しかしながら、彼女が9歳の時に45歳の父は毒殺され、その資産は共同経営者達に横領され、遺族に残ったのは唯一家のみでした。母のドラは、悲しみのあまりしばらくは呆然自失となりましたが、そのうちに繊維製造業をはじめ、三人の子どもを育てていきました。
テレサさんが12歳の時に、スコピエにあるレトニスの聖母マリア像の前で、初めて神の声を聞き、それに答えるべく自分自身を神の奉仕に捧げることを心に誓いました。
その6年後、18歳の時に、家族および故郷と別れ、修道女となりました。そしてインドに趣き、彼女の修道生活が始まります。
その頃のインドは、独立に向けて苦しい歩みを進めており、マハトマ=ガンジーが大衆的非暴力抵抗運動を全インド的に展開していました。1939年には第二次世界大戦の暴力に巻き込まれていき、その後もヒンズー教徒とイスラム教徒との紛争が生じ、カルカッタの街路を血の海にかえ、食物や日常品の運送は完全にストップするという事態も生じました。
1946年の9月10日、マザーテレサさんはダージリン行きの汽車に乗っていました。その時、彼女はまた神の声をはっきりと聞きました。
 「すべてを捧げてスラム街にまであのお方、キリストに従い、貧しい人の中で、その方に仕えよ。」とのメッセージでした。
そのメッセージ後は、それまでいた修道院を出て、貧しい人々と共に住むことになりました。その後、色々な迫害などもありましたが、彼女は信念を変えませんでした。
後に、テレサさんは、新しい修道院を創設し、修道服として水色の縁取りのある白いサリーを身にまといました。(この色にも意味があります。)
そして、死を待つ人の家、子どもたちの家、ハンセン病の巡回診療所などをつくり、貧しい人、苦しい人、癒されない人を助けていきます。
インドには路上で生まれ、路上で死んでいくという、先進国で生まれ育った人たちには理解に苦しむかも知れない路上生活者がいます。
テレサさんとシスター達は、誰にも看取られずに路上で死んでいく人を死を待つ人の家へ運び、身体を洗い、衣服を着せ、食べ物と薬を与えます。
ある日、貧民街のゴミの中から虫に半分食べかけられていた男性を救い出し、死を待つ人の家へ運びお世話をしました。
その男性は、「私は、道端で動物のように生きてきたが、愛と看護の手に囲まれて、天使のように死のうとしている。」という言葉を遺し、そして天使のように死んでいきました。

ある日、テレサさんは、死を待つ人の家の老婆に、「さあ、元気を出して!私はあなたに生き続けて欲しいの。あなたは、この世に生を受けてきた大切な、大切な人なんですよ・・・。」 と老婆の力なく、だらりと垂れた手を握り、目をじっと見つめていました。
息をするのがやっとの老婆の口がゆっくりと開いて、蚊のなくほどの言葉を押し出しました。
「あ・・・。」テレサさんが、「さあ、しっかりするのよ・・・。しゃべって下さい。」と励まします。
老婆は、とぎれとぎれとなりながらも、「あ・・・りが・・・とう」と言いました。
そして、老婆の目はとじられ、呼吸は止まりました。

老婆はきっと母なる愛を感じることが出来たでしょう。
死ぬ直後に初めて、人間として認められた歓び、長く辛い人生の旅を思い出し、死を待つ人々に「愛のある言葉」を捧げ、見取られた人たちは安らかに眠りについていけたことでしょう。
マザーテレサさんを慕う女の子達は裕福な家庭の子女が多く、彼女達は家、財産も捨て、貧しい人、病気を持つ人、苦しい人の世話にその生涯を捧げます。彼女達には修道女としてのサリー2枚と洗濯用のバケツ1つが与えられますが、私物はほとんどありません。
彼女達は、何故にシスターになることを選択し、マザーテレサさんのように生きようとしたのでしょうか。あるシスターはこう言っています。
「ここには、シャンデリアも美味しいケーキもないけど、私にとっては、昔、お嬢さんでいた時よりも数十倍も楽しいのです。たくさんの苦しんでいる人が私を待っていてくれる。私は貧しい人、苦しんでいる人の一人になることが出来たのよ。私は何も持ってないけれど、私の胸にはこんなに愛が溢れています。」
この世に生まれ生きて来た多くの人間は世間の評判になろうとか、富を得ようとか、名声を得ようとか、注目をあびたいと願い、さらに、社会奉仕とか、慈善事業をすることで、世間から善い人と思われたいと願っている人もいるでしょう。
しかし、シスター達はそう思って仕事をしていません。さらに、悲壮感を感じながら仕事をしているのではありません。
ただ、貧しい死者達は死ぬ前にも「この世に生きてきて、良かった」と感じることが出来る役目をシスター達はして来たと思います。
マザーテレサさんは、神の啓示を受け、多くの人を助けるようになりましたが、いつも神に「私をあなたの平和の道具としてお使いください・・・。」 と祈っています。
そして、「神は、私達にさせたいとお望みになったことを、示してくださいます。」 と言い、そのように行動しています。
このテレサさんの言葉は、スピリチュアリスト、ヒーラー、セラピストであれば、「神様の道具意識に徹底する謙虚さ」の意味が分るでしょう。
その神様の道具意識を徹底していたマザーテレサさんは強い霊媒であり、自分の身を通して神の意向を反映することを何よりの喜びとしていました。シスター達も、マザーテレサと同じようにその喜びに満ち溢れています。

「死を待つ人の家」では、シスター達がにこやかによく笑い、死を待つ人々がいるところとは思えないほどに明るく華やいだ雰囲気があるそうです。そして、マザーテレサさんは、「私達の仕事は、誰かに惜しみなく愛をあびせること」とおっしゃっています。
私たちはインドに拘ることなく、遠い国に行かなくても、そして、シスター達のように死を待つ人の家で働けなくても、誰かの為に、ちょっとした笑顔、ちょっと元気にしているか電話をかけたり、目の見えない人の為に代筆して差し上げたり、新聞を読んであげり、お年寄りに声をかけて荷物を持ってあげたり、席を譲ってあげたり、妊婦さんのお手伝いをしたり、自分をこの世に生んでくれた両親に感謝したり、ささやかなプレゼントをあげたり、いつも側にいて一緒になったご主人に、奥さんに感謝の言葉を言ったり、それ自体はとっても小さいことでしょうが、小さいけど神様の愛の行動なのです。
その神様の愛の行動を実践して頂いたマザーテレサさんは、「20世紀の最後の聖女」と呼ばれていましたが、彼女は忠実に神様の道具として人々の救済活動を続けきました。
そして、今でも、天国から貧しい人、苦しい人、悲しい人へ、母のような慈愛をこの地球に向けて送り、癒し続け、励ましてくれているでしょう。
ありがとうございます。