お別れの日まで  帰国

振り返ってみると、2011年3月11日は東日本の大震災、さらに、キプロスも7月11日に海兵隊の倉庫が爆発した為に、1ヶ月半も一日平均4時間ほどの突然停電が続き、それでなくても、8月のキプロスは砂漠のように暑く、猛暑が続き、11月になっても暑い日が続いていた。
週に2回ほど国際電話で父と話す習慣があった。
去年の年明け頃から、喉の調子が芳しくないと病院に通っていた。
悪性の胃がんだと診断され、手術をしてから5年以上経って、私が言っても、他の人が老人ホームに入るように言っても、首をたてに振ることなく、頑なに拒み続けていた。
支援1から支援2にして貰い、通いのヘルパーさんが週に何回も来ると、気兼ねするからと言っては、私にあれしてくれ、これしてくれと依頼する度に、「時差があるから、明日になるからね。」と言うと、「なんで、今日中に出来ないだ。」と腹を立て、私と度々、電話で喧嘩になったりした。
昭和一桁の父世代は何でも自分でしなければ気が済まない性分だったうえ、難聴者の父には、誰かと共同生活は苦痛に感じたのであろうと思える。
2年に一度、父に会いに帰国していたので、2011年の秋ごろに帰ろうと思いつつ、国難の日本に帰ることを躊躇していた矢先、何度、電話を掛けても電話に出ず、数年前に倒れて疼くまっていたのを元民生員さんが発見して、救急車を呼んで下さったことが脳裏を過ぎった。
去年の夏ぐらいから、声の調子も良くなく、電話する度に寝ていることも多く、近所の人にメールをして様子を聞いたり、応答がない夜には、倒れているかもと思い、ご足労頂いた後に、11月11日に誤嚥肺炎で自力で自ら近所の人に電話をしたが、留守だった様子でケアーテイカーさんに連絡をして、来て貰って、救急車で病院に運ばれたようだった。
その後、絶縁状態の兄に病院に行って貰うことをお願いしたが、拒否されたりした。
ケアテイカーさんによると、それほど大事に至らないというニュアンスであったが、無理を言って兄に父の容態を病院に見に言って貰ったときに「死相が出ているから、帰って来たほうが良いのではないのか?」という話になった。
主人と相談し、意識があるうちに会って様子を見て来たらと提案されたので、急遽、チケットを取り、バタバタと日本に帰国した。
機内にいる間に危篤になってしまっていたらと心配になったりしてゆっくり出来ず、朝一番に病院に行けるようにと地元のホテルを取り、その足で病院に向かった。
父に声を掛けたが、私の顔を見ても「知らん!」と言って無視された。
主治医の先生、看護婦さん、病院の相談員さん、ケアテイカーさんを交えての父の状況を何度も話し合い、父に声を再度、掛けたが無視された。
スーツケースを空港から送っていたので、父の家に帰ることにした。
家に帰ってみると、救急車で運ばれたその日の状態だったのか、こんな状態で寝ることも出来ないと思い、夜の7時頃から掃除機を手に取り、掃除をしていたら、ガタガタと縦に家が揺れていた。地震だった。
そうこうしていると隣の方が、「かずこちゃん、帰って来たの?」とお越しになったので、立ち話したりして、もう、父はこの家に帰って来ることがないだろうから、大きな家電の処分をしないと行けないと思いつつ、畳に布団を敷いて寝た。
次の日も朝早くから病院に行き、父に話掛けたが無視されて、「知らん!」と言われた。
知らんと言う意味が分からず、どうしてと思いつつ、痴呆かも知れないと自分に言い聞かせた。
帰国後3日目の日に父が車椅子に座って、景色の良い場所で日向ぼっこをしながら看護学生の男子と会話をしていた。
私が近くに言って話しかけると、また、無視された。
その日は11月中旬だったが、青空で汗が出て来るぐらい暑い日だった。実家から朝、ダウン症の姉が通っている作業所に連絡をいれ、お昼ご飯が済んだぐらいに姉を迎いに行き、父に会わせようと父に「サー子を午後から連れて来るからね。」と告げると、鬼のような顔で「サー子はどこにおるんか?」と聞かれた。
サー子には反応するだと悲しくなった。
ミイラのようにやせ細った父は私を忘れてしまったのか。
タクシーで姉の居る作業所へ行き、ランチが終わった後に決まった習慣があるらしく、タクシーを待たせていたが、お構いなく、しっかりと歯磨きをしていた。
そして、父に姉を会わせ、時間が来たので、姉をタクシーで送って行った。
別件で自宅に帰らなければならなかったので、その日は父に帰ると言って帰った。
次の日に父にあったが、怒った顔をしていた。
私が「お父さん、来たよ。」と言うと。無視されたが、話かけると「お前は誰だ!」と言われ、「カズコだよ。」と告げると「カズコだったら、ワシの保険書を持っているだろう?」と聞かれた。私が「持っているけど?」と言うと、「見せてみろ!」と問われて、カバンから出して見せると「銀行のカードもあるだろう?」と聞かれ、見せると、「カズコか。いつ帰って来た?」と「ごめん、ごめん」と何度も言いながら、握手を求めて来た。
破傷風になっている手で何度も握手をして、「旦那に迷惑かけるな、まさか、帰って来てくれると思っていなかったから、カズコに似た人でワシを騙そうとしているのかと思っていた。」とくぼんだ目を細めながら、ニコニコと話していた。
会えたことが嬉しかったのか、興奮状態で元気な声で数時間話をした。
その日が一番元気でまともな話をしていた。
その後は、喉に痰が詰まったりして、吸引して貰ったり、体調が良くない感じだった。
しかし、体調は悪いが安定した感じだったので、違う病院を紹介して頂いたり、その話合いをしたり、姉の件、葬儀の件、家の大きな家電の処分、兄家族の悩みを聞いたり、毎日、病院通いをしながら、すべての家電を処分したので、寒い時期にコンビニ弁当を寒い古い家に帰って食べながら、知らず知らずに涙が頬に流れていた。
いくら日本語が出来るからと言って、2年ぶりの地元に帰り、病院通い。
寒さと孤独さに負けそうになることもあった。
最新設備の新しい病院から父のような状況の患者さんがいる病院に移動しなければならない為に、転移する病院の先生とお話したり、その先生には「延命治療をしないなら、自宅で看取ったら?」と言われたので、「自宅で看取ります。」と言い、兄、主人、病院の相談員さんに告げると、「止めておいた方がいいですよ。あなたが倒れますよ。」とアドバイスされ、兄も「お前はバカか?お前が死んだらどうするだ!」と言われ、主人にも「無理し過ぎないで、病院で死期を迎えるのが良いよ。」と、主治医も「プロに任せた方が良いのでは?」と言われ、病院と病院の連携が取れてなかったらしく、その後は転移する病院の先生も自宅介護の件は言わなくなりました。ただ、延命治療を希望しないのであれば、「文章で一筆書いて、捺印して下さい。」と言われました。
家に帰る途中に封筒と便箋を買い、いざ、書き始めると何度も、なぜか、「お願いします。」と書いてしまい、お願いしませんと書く機会がないため、やっぱり、お願いした方が良いのかと思う気持ちになりました。
続く
1300444613_c11-354