愛とは・・・

18.9:320:240:0:0:pinksakura:center:1:1::
「愛」という言葉の乱用!
おととしほどにこの「愛」ということで、わたしのメルマガに書いたことがあるのですが、ここで少しこの「愛」という言葉について考えてみたいと思います。
高級霊であるシルバーバーチが言っている内容も含めて考えて見ましょう。
シルバーバーチは、「わたしは人間の苦痛の叫び声に無神経なわけではありません。できることなら重荷のすべてを、わたしが背負ってあげたいくらいの気持です。ですが、地上世界のことは地上世界で片づけないといけないのです。そこには“公正”というものが行きわたるようになっているのです。」 一番大切である「愛」が誤解されていると言っています。
私たち人間が呼んでいる愛は高級霊であるシルバーバーチからすれば本当の愛でないというのです。私たちが使う人類愛、恋愛、家族愛などいろいろな愛の形があると思います。個人的なレベルの利己的な愛から、自分を忘れて人のために尽くす愛もあるでしょう。
この愛を英語でいうと、ラブとなりますが、至るところで乱用されているように思います。
ギリシャ神話で有名な女神アフロディテ(ヴィーナス)は「愛」の象徴と言われています。
ギリシャ語でいう愛はもっと英語でいうラブよりも深く、言葉だけでは理解出来ないほどだそうです。

さて、特に日本ではこころの病で苦しんでいる方は、この「愛」に飢えていますから、セラピストさんでも意図的にこの愛という言葉を口にしては、人を騙そうとします。結婚したい女性たちをかもにする結婚詐欺師はこの愛という言葉をお金を巻き上げるまで使用する人たちもいます。この愛という言葉を使うことでいかに相手のこころを擽るか分かるのです。
ですから、詐欺師の人たちはこの愛という言葉を繰り返し使用して、結婚したい女性たちに何度も何度も「愛している。」と言いつつ、自分の不備を話して結婚したいけど、借金があるとか、誰かの連帯保証人になっているから、莫大なお金を返済するまでは結婚が出来ないけど、愛していると言いながら、相手を洗脳して行きます。
ですから、騙された女性達は結婚詐欺師だった男性の本性が分かっても、「あの人はわたしのことを愛している」と信じて諦めない状態にまでしてしまうこともあるでしょう。
結婚詐欺師からすると、「俺は悪くない、貢いだ彼女が悪い」となります。
今のこころの時代は自分に優しくしてくれる人を良い人、愛のある人だと思う傾向があるでしょう。
愛がある人は優しいと思い込んでいるのです。女性達が結婚相手を望む中で、経済的な余裕の他に、この優しさを求めていることが多いでしょう。
一昔みたいに何かを学ぶ際に鬼コーチみたいな先生は人気がなく、教わる側は授業料をお支払いしているので、出来るだけ優しい先生を求めているでしょうし、優しい先生が一番だと思っていることでしょう。
会社に行っても、学校に行っても、家に帰っても子供達は親から優しさを求めている傾向があるのではないでしょうか。
この優しさは、もちろん、心を癒してくれたり、慰めてくれたり、安堵感を感じさせてくれます。
優しさは心を安心させてくれますし、心地良いものです。

でも、注意しなければならないのは、この優しさばかりを求めてしまうと、その優しさは他人から頂く言葉だったりしますから、この優しさを求めて、寂しくなると、人が集まっている活動に参加したり、教会に行ったり、宗教に入ったりして、孤独感や寂しさを癒してくれるだろうと願い参加している人もいるでしょう。愛されたり、優しくされたいと願うことは悪いことではありません。
しかし、私たちはこの世に生まれ変わるときに、いろいろな形で魂のお勉強をするために生まれ変わっております。ですから、この優しさの中から抜け出せない為に誰かに注目して貰いたいからリストカットをしたり、自ら病気になったりして、病院に入院したりしては、病気はすでに治っているが、病気が治ると家に帰らなきゃいけない、家に帰ると優しくしてもらえなくなるので、また、入院したり、他の面でもセラピーを受け続ける人を見かけます。本当に病気であれば、優しくして貰うことは必要でしょう。癒されてあたりまえです。
でも、霊的自立という面では自分で自分の殻の中にて身動きできない状態にて自ら自分の心を傷つけているのではないでしょうか。常に誰かに愛して貰いたい、優しくして貰いたいと願う人が多くなったように思えます。
私たちは優しい人=愛がある人だと思っているかも知れないですね。でも、この錯覚の為に幻想の世界にいたいと願う気持ちにて、本来、自分で解決できることでも、あの人に相談すれば、あの人は優しいからと思っている人もいるでしょうし、私たちは人間ですから、誰かに優しくされれば嬉しくなるでしょう。その優しさを与えた人もその人が喜ぶことは嬉しいことです。なんだか善いことをしたき気持ちになることは確かです。でも、常にこの優しさを求めていると、ハイの状態、麻薬を服用した気分でいることは、こころを強く出来ないまま、その優しくしてもらえる人が何かの都合で電話やメールやお話を聞いてあげれない、会ってあげれないとなると逆恨みになるときもあります。
さらに、ここ最近では友達を選ぶ際に本音で付き合う友達よりも、この優しさを自分の為に使ってくれる友達と繋がろうという人たちもいます。
ですから、喧嘩をしてさらに仲良くなると言うより、表面的な友達関係ですから、相手が都合が悪くて会えないと「もう、私のことなど気にしていないのでしょう?」という独占欲が強い人たちも見かけます。
この愛や優しさを安売りすれば、人間関係もそうですが、紛らわしいこともせずに、物分りのある親や先生と思われたり、さらに、相手を喜ばすと自分も良い人でありたいと願うときもあるでしょう。ですから、自分は良い人で愛があるし、優しい人だと思うようになります。
この優しさもひとつの麻薬効果であることは確かですから、人助けになることは確かです。
しかし、、愛がある、さらにこの優しさと愛を活用することで人をコントロール出来ると錯覚するようになります。優しさの安売りには、麻薬的魅力があるのです。こうした目先の魅力・快楽に誰もが簡単に惑わされ、正しい判断ができなくなってしまいます。
しかし、この優しさや愛されたい気持ちは、欲と同じです。もっと優しくして欲しい、もっと愛して欲しいと願い、これはある意味、自分で自分を傷つけているのです。
寂しい、辛い、苦しいはこの地球に生まれて来た人で無い人はいないでしょう。自分が希望する愛や優しさを与えられることは不可能です。エスカレートしてしまった愛は憎愛となるときがあります。本来は自分を愛することで、この感情のコントロールをすることです。常に外からの自分への評価や愛されたいと願うことは、この人が駄目なら、次はこの人のところに行って優しさを与えてくれる人のところを点々とすることになります。しかし、この愛されたいと願う人はどこに行っても、エスカレートして行きますから、お友達にも親にも、そのほかの人たちからにもトラブル・メイカーと思われてしまい、匙を投げられてしまい、それでも寂しさや孤独感を覆されないのは自分を知らないからです。本当の自分を知れば、そとの雑音(言葉だけ)に振り回されなくなります。
今、心が寂しい人、愛されたい人は「自分探し」の旅に出かけましょう。
読んで頂き、ありがとうございます。
ありがとうございます。