いつからでも、何度でも、人生にはチャンスはある!

28.1:280:200:0:0:ichijiku:center:1:1:いちじくは体に良いそうだ!:
こんにちは!
いつもありがとうございます。
ありがとうございます。
昨夜は思ったよりも寒かった、もう4月も下旬だというのに山は雪がちらついたそうだ。ギリシャも寒いと聞いたが、フランスはすでに27度の暑さだそうだ。
今日はギリシャから旦那の妹がキプロス入りする、姪っ子達との再会は3年ぶりだが、彼女たちは学校で忙しいから今日来て、月曜日には帰るらしい。
でも、山に行きたいとのことで、旦那はオーストラリアにいるときはあまり車の運転をしなかったが、ここに来てからは1日に500キロほどの距離の運転をしている。
今年も山の果実園に黄色いサクランボウが実るのが楽しみだ。
赤いサクランボウも美味しいが、黄色いのは、とっても甘くて美味しい。
ゼウスが住んでいたという国だけあって、果実の種類が多く、私たちは和風ベジタリアンだが、旦那は夏にはフルーティアンになれるほど果物好きだ。
自然は偉大だと思う。
夏は夏の果実を私たち人間に食べれるように、提供してくれるし、冬は冬の果実、それにナッツやアーモンドも提供してくれる。
7月ごろになるといちじくが義理のお姉さんの所の庭になる。
そのイチジクは白いイチジクで小さくて甘い。
オリーブの木もほとんどの自宅にあるので、自分たちでオリーブオイルやキリストも食べていたと思える昔ながらの塩漬けのオリーブは癖になるほど好きだ。
今日はキリストのたとえ話の中での、『実のならないいちじくの木』(ルカ13章6〜9章)のお話をしたいと思います。
ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。「もう3年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」園丁は答えた。「御主人様、今年もこのままにしておいて下さい。木の周りを掘って、肥やしてみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめら、切り倒して下さい。」

このキリストのお話は価値が無いものは取り除くという意味のたとえ話ですが、昔も今も人によっては、価値がないものは切り捨てる物質価値を重視した人はいるでしょう。
では、この世で価値があるものとは何でしょうか?
このいちじくの木のご主人と園丁のやりとりは実は私たち人間と霊界の人たちのやりとりだったりするので、「実をならせたことがない」という意味は生命の奉仕というべきことがなされていない、反対にこの世的な欲望を追求をしているということになる。
ですから、霊界の人たちは「どうして?良い土地をふさがしておくのか?」と園丁に尋ねます。
そして、園丁は答えます。「今年もこのままにしておいて下さい。木の周りを掘って・・・」という意味は「もう一度、チャンスを下さい。」とお願いしています。
これはキリストのたとえ話はユダヤに伝わるカバラなどで人生をトランプのゲームと同じように思うところがあるユダヤ気質から来ていると思います。
トランプゲームで最初に配れたカードは運命要素だったりします。
ですから、財産家の家に生まれたり、容姿端麗で人も羨む美貌に恵まれたり、さらには優れた頭脳を持って生まれた人もいるでしょう。
最初に良いカードを配れなかった人は、大した財産家の家に生まれなかったり、人を抜きこんだ才能もないかも知れません。
でも、ポーカーや大富豪などのゲームで分かるように、勝負は必ずしも最初のカードで決まると言い切れないのです。
運命はもちろん良いカードを最初から持っている人の方が有利ということはありますが、その人の精神面での強い意志によっては、こんなカードでは勝てないと思うゲームでも逆転勝ちもあるのです。
ですから、今まで「つまらない人生」だと思って生活するより、これからの人生は自分の人生なんですから、自分でどう作戦をとりながら一生懸命に生きることで、必ず光の導きがあるでしょう。
私たち人間はこの世に転生する際に、「真実の目覚め」を自己の身体の中に用意して生まれています。ですから、ちゃんと一人、一人、持って生まれて来ているのです。
それは、最後の一瞬までもチャンスがあるということです。
必ず、より良い方向へ向かう気持ちは霊界にいらっしゃる方々が見ていてくれます。そして、人生とは変化の連続だから楽しいのです。
人生に希望を持ち、そのチャンスは至るところにあるでしょう。
きっと、自然界にこころを向けると内なるあなたの声が聞こえてくるでしょう。
ありがとうございます。