必死に生きない ♪

11.5:350:263:0:0:hk:center:1:1:大好き ☆ 香港:
こんにちは!
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中国に老子と呼ばれていた老人がいた。紀元前500年前の話だから丁度お釈迦様が生まれたころになるだろう。
タオリズムの師たちは、『無為』の教えを書き残している。『無為』とは何もしないということだ。仏教でもそうだが、『無』を通じて神様との距離が近くなるという意味らしい。禅の開祖である達磨は9年近くの間、壁に向かって座禅を組んでいた。何もしないで神の力を知ることが出来るのであろうかと思う。
しかし、多くの聖人たちは瞑想という無心なる行為をすることでこころに安堵感を感じている体験から2500年経った後でも、この『無』に対して興味を抱く人も多い反面、物質的なモノを追いかけて必死に生きている人たちの方が圧倒的に多いのではないだろうか。
この『無為』を実行するには今の時代には適当ではないのだろうか。
生活する為の衣食住を満たすには『無為』を実行することは出来ないだろうか。
今の時代にあった『無為』にすることも可能ではないだろうか。
ファッションで着る洋服が時代の流れによって違うように、出来ないことはないと思う。私達は輪廻転生を繰り返して、来世が過去よりも現在よりもより良い生活の為にこの世に生まれ変わったように、この現世にて、私達は色々な意味で学ぶ必要があるだろう。
だから、この『無為』を生活に取り入れることは出来るだろう。
この『無為』には人間の欲望や必要以上に何の為に働く必要があるか考えことになるだろう。
一生懸命に生きることは精一杯生きることだと思う。
しかし、必死に生きることは、何かを犠牲にしてまで自分に抑圧をかけてまでする行為だろうか。
必死になっている人を見ると、ギリシャ人のイソップ物語の「金のタマゴを生む鶏」を浮かべてしまう。最後には大慌てで自分が殺した鶏を生き返そうとする所はギリシャ人の滑稽なところが面白いが、いざ、必死で生活している人はお金持ちになることだろうか、それとも、地位、名誉の為だろうか、必死になることが美徳ではないということは、犠牲にして失ったモノへ代償が時と共に分かるときがあるだろう。
一生懸命というにはマイナスのイメージがないが、仕事でお客様の獲得の為に必死になる、誰かに認めて貰う為に必死になる、人に負けたくないから必死になる行為は煩悩を傷つけているかも知れない。
無理しているだろうから、自己犠牲とも言えるだろう。
しかし、無為は人間に必要な行動だ。トイレに行きたい、買い物に行き、今晩の献立の食材を買って帰る行動は人間であれば必要な行為であろう。
もしも、あなたの生活で必死にならないと生きていけないか考えてみる必要がある。必死になることには、感情が含まれているだろう。
どうして、必死になっているか少し冷静に考えてみる必要があるだろう。
もしも、お金に困っていて、緊急にお金が必要になる約束をしてしまっていたかもしれない。仕事で大きな利益になる顧客を獲得しないと、ライバルに負けるかも知れないという不安もあるかもしれない。
他にも自分が何の為に必死になっているか気づくときが来るかもしれない。
すべての仕事を同時にしようと思うと必死になるときもあるかもしれない。
もしかすると時期でないときに、必要以上のモノを追いかけているから、自分が描いていた通りに事が運ばず、フラストレショーンの心の圧迫で必死になっているかもしれない。
そんなときは『無為』を学ぶことを薦める。
瞑想もする時間がないのに、無などにも興味もない人でも、『無為』の行為を学ぶことは出来る。
何かに執着を持たないこと、何かに抵抗しようと思わないこと、そして、静かな静寂な気持ちを持ち、忍耐の気持ちを持つことだ。
そして、感情を入れずに自然体で目標に向かって進むことだ。
そうすることで、宇宙から贈り物が届く。
必要なモノは宇宙から誰かを通じて、自然を通じて運んで来てくれることを信じることだ。
『無為』の意味は奥が深い、生きていると逆境や息をするにも苦しい試練は誰にでも待っているし、その最中の人もいるだろう。
物事が上手く行っていないときは、登山家が山に登るときの行動と同じように、こちらの道は危ないかな?という直感を信じ、一旦、そこから遠ざかることだそうだ。人生も同じで仕事でも、恋愛でも、一生懸命やったが上手く行かないときは、きっぱり諦める覚悟が必要だ。
何かの行為をするときに、感情を入れないで人生のありのままを認めることだ。
人も人生もコントロール出来そうで、実は出来ない。
何かの行動をするときに、上手くやろうとする必要もないだろう。
無為の行為には人生のありのままを受け入れることだ。
人生など季節と同じで、冬の凍った大地に大根の種を蒔いても芽はならないのと同じで、人生には季節の移り変わりと同じように巡り合せという奇遇なようで偶然はないし、私達は神様という偉大な力の大河の一滴の為のお使いの為にこの世に身体を借りて生きている。豊かな偉大な神様の力。
だから、何も焦ることはないだろう。
森羅万象の背後にいる霊たちの存在を理解するだけだ。
行動するベストな時期がそれぞれにはある。
もしも、いつ行動していいか分からないときは、行動を控えることだ。
現世で行動する機会に恵まれないと嘆く必要もないだろう。
それは、あなたは永遠の魂の存在だからだ。
静かに待てば良いだけだ。
自由に自分がこの世でこなす成長のための課題をやり遂げることだ。
そうすることで、宇宙からあなたのところへ自然な形で贈り物が届くはずだ。
生活の中で上手く行かないときは、時期でないと諦めることを学ぶことで沈黙から学ぶこころの豊かさを体験するだろう。
何かを犠牲にして何かを求めても、それを手に入れたときに、それに注いだエネルギーに見合うモノで無かったと気づくことがあり、がっかりすることは誰にでもあるだろう。それは物質的なモノのをえることで誰かに自慢したいが為に必死になって得た物だから、重荷になるモノをひとつ、一つ、副いで行くことで『無為』の意味が分かるかも知れない。
だから、もう一度、考えて欲しい。
物事が上手く行かず、どうすることも出来ないときは、一度、冷静に立ち止まって見てください。
ちょっと待ってみて下さい。あなたの奥深いところにある何かのせいかもしれません。あなたが欲しいと思ったモノは、本当に必要としているものか?
大きな責任などで何かを犠牲にしてまでも、手に入れる必要があるのだろうか?
もしかすると、それを手に入れる為に、大きなモノを失うかも知れない?と内なる自分に聞いてみることです。
本当に必要であれば、内なる自己が進めと色々な場所でスムーズに行くメッセージを送ってくれるでしょう。
さらに1日という24時間の時間があれば、何もせず、テレビ、ラジオ、音楽も見ず、誰とも話さず、自己のメッセージに耳を傾ける方が本当の意味での『無為』である。
頭で考えずに、静かに過ごすことで『無心』から『無為』は神様の行動に近いことを体感できることだろう。
読んで頂き、ありがとうございます。
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