ありのままの自分探しの為に 瞑想の薦め

12.8:246:350:0:0:kazshop008:center:1:1:あなたのこころに耳をすまして・・・ ありがとうございます。:
こんにちは!
いつもありがとうございます。
ありがとうございます。
私たち人間はここ最近の現代社会の生活の中で、常に外に意識が向いている人も少なくないでしょう。
自分以外の人が批評したコメントの方が、自分が思っている信念よりも重要視しているから、相手のちょっとしたコメントで落ち込んだり、喜んだりしていませんか。
たとえば、高級ブランドの洋服や靴を買って、次の日に会社に行って、同僚達に、「わぁ〜!とっても綺麗な洋服ですね。似合っていますね。」と褒めて貰いました。
似合っていることは良いことでしょうが、綺麗な洋服は貴方ではありません。
髪型にしても、似合っていて素敵であったとしても、常にその褒め言葉を誰から期待して、褒めて貰いたいと願っていると、生活の中で、自分の感情やフィーリングを意識するのでなく、他の人からの意見ばかりに耳を傾けてしまうこともあるでしょう。
耳元で居心地の良い言葉ばかりを聞いてばかりいると、自分らしさが失われてしまい、他人の評価を気にするようになるでしょう。
その為に、エネルギーを使うことになるでしょう。
その後、周りの人たちからコメントが頂けないとなると、喪失感を感じることにもなりかねません。
物質的な価値観に拘ることなく、一人でいても自分らしさを追求することが出来る手段があります。 一日のうちの3分でも、5分でも、静かな時間を作り、「内なる対話」「内なる反省」をすることで、沢山の気づきのメッセージが届くでしょう。
その手段こそ、スピリチュアルの扉を開くことが出来るでしょう。
その手段とは、「瞑想」です。
本来の瞑想は、私たちの人生の様々な場面における生き方、存在の感覚、あるいはそこで起こっていることへの自覚や探求の姿勢ではないでしょうか。
それは、人間関係の気づきの探求にもなるでしょう。
瞑想は別に座らなくても出来ます。
一人でいるとき、誰かとお話をしているとき、バスの中で、仕事をしているとき、自然の中で歩いているときにも、お風呂に入っているときにも、どんな場面にいても私たちは、自分の心の向け方次第で瞑想が出来るのです。
私たちが自分の感情や思想、外の世界の人や物などに対して、その物に接する中で、様々な意識を学んでいけるでしょう。
瞑想することで、「私は誰?」「私はどうしたいの?」という問いに、少しずつ気づきが頂けるでしょう。
日常生活の中であらゆる場面において、気づきを深めていけるでしょう。
自分の本質を知ることで、現実をありのままに受け入れることは、真実を理解することになります。
そうすることで、「執着」「エゴ」「思い込み」を手放すこと、さらに、苦しみから解放されることが出来るでしょう。
その苦しみから解放されることで、自他を共に受容して慈しむことが、無償の愛が湧き出てくることが、ひとつの体験として、現世の魂にインプットされることでしょう。
現世で生きていると、日常生活のあらゆる場面にて、私たちは思い通りにならない出来事に出会い続けていることでしょう。
その思い通りにならない出来事を通じて、様々な体験により、真実の心を開き、それを受け入れ、理解し、慈しむことを学び続けることが出来るのです。
それが「無我」であり、「空」です。
この「空」のこころになれば、ありのままの自分を受け入れることがあります。
お釈迦様も悟りを開いた後の最初のお話の中で「ありのままに見る智慧」が、生きる上で大事だとおっしゃっています。
私たち人間は感情と共に生活しています。
怒り、不満、不安などのマイナスの感情、そして、喜び、興奮、満足などのプラスの感情も、実は同じ要素で心から湧いて来るものなのです。
私たちが持っている感情表現は、空の雲と同じで変化して行きます。
ですから、自分だと思い掴んだものでも、その後、その自分は変化して行きます。
永遠のモノは唯一、魂です。
この世で生活していると病になることもあるでしょうし、時間が経過すると死んでいきます。
変化して消えていくものは、ある種の喪失の痛みを感じさられます。
変化消滅をコントロール出来ないことが、苦しみを招くでしょう。
しかし、その苦しさや痛みから逃れようとして、もがき苦しみ、保留にしていても、解決は出来ません。人それぞれに、その苦しみや痛みを和らげる時間は違うでしょう。
そして、苦しみ、悲しみ、辛さ、痛みを誰かに分って貰いたくて、暗中模索することもあるでしょうし、精神的にも、感情的にも、「この苦しみが、誰に分るものか・・・。この痛みが消えるなら、私も海の水の泡になってしまいたい・・・。誰か、私を殺して・・・。」と願い続けることもあるでしょう。
しかし、苦しみ、悲しみ、痛みは誰のものではなく、ただそこに縁が出来て、その縁が消えてしまえば、一つの気づきを頂けます。
その誰のものでもないが、側にいる家族、友達、そして、動物や植物でさえも、一緒に苦しみ、悲しみ、痛みを感じます。
苦しみの意味を受け止めることで、無我であることを悟るということは、常に「わたし」を外の為に作りだそうとする「心の癖」に気づき、その呪縛から解放されことでしょう。

さて、その為にも瞑想をお薦めします。
瞑想中に雑念ばかり出てきて、心が落ちつかない人の為に、機会があれば、瞑想法を書いてみたいと思います。しかし、瞑想方法は沢山ありますので、ご自身がこれというのがあれば、そのやり方が一番です。
瞑想が出来ない人は、感謝修行を続けて下さい。
特に一人でやる時は、声に出してやるのが一番です。
そして、自分の中にあるさまざまな思い込みや執着を手放せるようになっていきます。
瞑想を通じて、ありのままに見つめ、感じることが学べるでしょう。
読んで頂き、ありがとうございます。
ありがとうございます。
合掌