すべての人が十字架を背負っている ☆

111.7:263:350:0:0:DSC00007copy:center:1:1:神の息子に感謝しましょう。 ありがとうございます。:
こんにちは!
いつもありがとうございます。
ありがとうございます。
この十字架、クロスと聞いて、皆さんは何を頭に浮かべますか?
西洋人で様々な場所で活躍している人で、テレビ画面を通じてクロスのネックレスをしている人、テニスプレヤー、サッカープレヤーと仕事柄は違ってもクロスにキスしたり、試合に出る前に十字を切ったりしている場面を見たことがあるでしょう。
日本でもファッションとして、クロス・ペンダントをしている人なども見かけるようになりました。一度、セント・ラザロスの教会にお仕えしている一人の僧侶に日本はキリスト教かどうか訊ねれたことがありました。「今の日本人はほとんどが無宗教者ですが、儒教、禅、密教神道などの影響もあります。最近ではキリスト教者でない人でも、ペンダントをつけたりしています。」と言うと、「ペンダントだけでもつけることは良いことだ。」と仰っていました。
この地球上に生きている人間であれば、誰もが、生まれた瞬間に既に何らかの形で「十字架」を背負っております。つまり、過去世から、十字架をその人が背負って来ているのです。
キリスト教であれば、「運命の法則」「因果の法則」と言っています。
ヒンズー教徒であれば、「カルマの法則」と呼んでいます。
キリストはあとで書く、たとえ話の中で、「自分の十字架」 つまり、私たち一人、一人が背負っている、私たち自身の十字架という言葉を使っています。
キリストの十字架と私たち、一人、一人の十字架とはどのようなものでしょうか。
キリストは「私に従おうとする者、私の道に従おうとする者は、わたしの十字架を背負ってついて来るであろう。」という意味ではなく、「自分の十字架を背負ってついて来るであろう。」と言っています。
これこそが、「運命の法則」であり、「因果の法則」でもある十字架を私たち一人、一人に、キリストの十字架をよく見て、キリストについて行くべきであることを教えてくれています。
どうして、キリストについて行くことが良いのでしょうか、それは、この地球上に生まれ、一人、一人の人生で起こる出来事について彼の教えに従うことによって、救われることになるからです。
もちろん、この地球上に転生した偉大な救世主はお釈迦様はアジア人の為に、彼の教えを実践することで、救われることも確かです。
今回はキリストに的を絞って綴って行きます。
人が自分の十字架を既に背負っているにもかかわらず、キリストに従って行こうとしないのでは、その人は自分の十字架を背負いながら、さらにこの世に転生してより一層の苦しみを味わうことになるでしょう。
キリストはたとえ話で偉大な真実をお話してくれています。
『それは誰もが十字架を背負っているということです。』
その十字架はどんな十字架でしょうか、どれぐらい重いのでしょうか。
重さは前世でした行為によって違って来ます。ですから、私たちは「因果の法則」に従う必要があるのです。そこから逃げることは出来ないのです。
自分の運命に逆らって進んで行くことは出来ないのです。
この地球上で生まれたことは自分の十字架のカルマの解消が出来るのですから、有り難いことです。
そして、キリスト自身が十字架を背負っている姿を見ることによって、私たちの背負っている十字架を軽く出来ます。聖書の中で多くの箇所に「わたしの所に来なさい。あなたの十字架を軽くしてあげよう。」と言っています。
キリストの本当の言葉を見落としてはいけません。
その偉大な存在のキリストがどうして、磔にされてしまったのでしょうか。
キリストが背負って生まれた十字架は大変重いものだったのです。
ここでは磔にされることになる丘までキリストが背負って行った十字架を指してはいません。キリストの十字架とはこの世界の十字架のことです。
人類すべての十字架のことです。
これが重たいキリストの十字架の本当の意味です。
世界各国のカソリック教会でも、ロシア正教会ギリシャ正教会でも同じように、「おお〜、神の子羊よ、世界の罪を取り去る者よ」と言っています。
これは、キリストの十字架とは人類の十字架であり、大変重たいものなのです。
当時、キリストが背負って磔にされる十字架は木製のもので軽いものだったそうです。それはキリストの十字架ではありません。キリストはその後、復活します。
その木製の十字架でなく、キリストが私たち人類の為に背負って頂いた十字架は、現在に至るまで存在しています。
キリストは私たち、一人、一人の十字架に「光」を照らしてくれています。
それは、生まれて来るときの「光」へ永遠の存在の為です。そして、この世にいる間の為に「一時的な存在」という両方の為に光を送り続けてくれています。
ここでルカ14章26〜33節のキリストのたとえ話を致しましょう。
『さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らの方に向いて言われた。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。
また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。』

このたとえ話の中には、私たちが為すべきことを為す前に、ちゃんと考えなさい。ものごとを始める前にその準備をしなさい。あなたは神様の伝道師になりたいですか。ここ最近はスピリチュアル・ブームですから、他の人たちが人の為に何かをしてあげているのを見て、自分自身に問うでしょう。「私も伝道師(霊能者、霊媒者、ヒーラーなど)にならなければ・・・」と思うかも知れませんが、その前に、自分自身にその資格があるかどうか確かめる必要があるでしょう。
人によっては結局、伝道師になれないと気づく人もいるでしょう。弟子になりたいと思い人々に癒したいと願うかもしれないでしょう。そう思うだけで十分な人もいて良いのです。
キリストのこの教えの中には、「すべての所有物を手放すこと」または「所有物に執着しないこと」は、ものを投げ捨てるという意味ではありません。
正しい形で手放すという意味があります。
自分が使うために、何かを手元に置くことは決して悪いことではありませんが、そのモノに対して、心を奪われてはいけないと言っているのです。
自分に必要なモノは持っていて良いでしょう。
そして、この「所有」という考えにとらわれてはいけません。キリストは私たちにこじきになって人からモノを受け取ることを言っているのではないのです。
キリストは「すべての物事に、決してとらわれないように」と言っているのです。
キリストのこのたとえ話の中での言葉は広く知られていますが、誤解して解釈している人も見かけます。
もしも、私たちがすべての物を投げ捨てるべきであると、キリストがその意味でしていたら、「求めよ、さらば与えられん」などと言ったりしないでしょう。
「執着しない」ということは「投げ捨てる」ということではありません。
物の為に奴隷になってはいけません。
今の時代は周りを見て分るように、どこを見てもお金を儲けることばかりです。
「これは自分の家だ!」「これは自分の物だ!」と人に自慢して言える物があなたにあるとすれば、あなたはその物の奴隷になっているかも知れません。
このたとえ話はキリストが伝えたようとしているのは「これらすべての物に対する執着を捨てること」です。
すべての物を投げ捨て神様のお仕えをする覚悟があるのであれば、それはそれなりに素晴らしいことでしょうが、もしも、すべての物を捨ててしまって、あなたが貧しい人になり、そうなってしまうと、他人の助けが必要になってしまうかも知れません。その他人は大変迷惑に思う人もいるでしょう。
私が日本滞在中に、日本のあちらこちらでホームレスを見かけました。時々、差し入れをして差し上げたこともありましたが、博多辺りのホームレスは駅の周りに屯していて、ポロシャツもラルフローレンのロゴ入りシャツを着ている人もいました。見た感じ、足が悪い、手がない、目が見えないというより、昼間から路上で酒盛り中でした。10人ほどでしたから、ちょっと怖い!というイメージがありました。それも、駅前で人が多い場所でした。
本当にホームレス?と思ってしまうほど小奇麗な中年女性も髪の毛も茶色に染めていたりして豊かなホームレスと思ってしました。
ジャワ島に一度行ったことがありますが、足がないインドネシア人の中年男性が熱いコンクリートに座り、両手を広げでお金を求めていたときには、涙が出て来ました。人口も多く、福祉も豊かでない国では、ボロボロの服を着て、5分そこにいるだけで、暑さの為に気分が悪くなるかも知れない場所で、頭をコンクリートにつけて「テレマカシー」と言われた時に、普通に暮らせるようになって欲しいと思いました。
この普通に暮らすとき必要な道具は、お金です。
お金があれば、普通に暮らして行く為に必要とする人々に対して、必要なものを分け与えることが出来ます。お金というものは自分自身のためだけに取っておくべきではありません。
このキリストのたとえ話からのメッセージは、「この物質世界のすべての物に、必要以上に執着を持たないこと」でしょう。
そして、どんな物に対しても、過大評価をしたり、その反対に過小評価したりして低く見てもいけません。やはり、物には物の目的があるでしょう。

長い文章を読んで頂き、ありがとうございます。
ありがとうございます。

*今回はキリストに焦点を絞りましたが、私はどこの宗教団体にも属しておりません。
ただ、スピリチュアリズム、ブディズムを伝えるときは、キリスト、お釈迦様の教えが必要になって来ます。シャーマリズムでさえも、そのシャーマンの教えの言葉を伝えないと奥の深い真理が見えてこないからです。
ありがとうございます。