奥の深いスピリチュアリズム ☆

15.8:350:158:0:0:supper:center:1:1:最後の晩餐 キリストとその弟子達:
こんにちは!
いつもありがとうございます。
ありがとうございます。
これまで色々なスピリチュアリストさんとの出会いがありました。幼少時代から霊的体験は人様に話すと異常だと思われる内容だったりしたと思います。
今でも生きているのが不思議なほど何度も事故に遭い、普通に暮らせていることは有り難いことです。幼少時代は祖母の影響にて「神道」を学ぶと同時に最近は珍しくはありませんが、興味を持った思想はユダヤ思想の「カバラ」でした。
その後、学生になってからは「仏教」に興味を持ちました。お釈迦様の話は心温まり、10代にして溶け込むように宇宙とは、この世とは、あの世とは分り易い因果関係を学ぶことが出来ました。
その学びはまだまだ続いています。
私達人間は生まれて物心がついてから、好むや好まざるに関わらずに、幸福であれ不幸であれ、自分のこころの反映を言葉に言い表していると思います。仏教で言えば、幸福であるか、不幸であるかは、実は、個々の人の奥底に存在している欲望に関係があるということですが、それを知っている人は多くはないでしょう。
私達人間は欲望が、満たされたときに、表に出る表情はにこやかになり満足するでしょうが、それも時間が経つと忘れてしまいます。この世に永遠に続く幸せはないでしょう。しかし、私達人間は無理にでも幸せが続くことを願い、その幸せを失わないように努力し続け、それが逆に新たな不安や不満や心配を作っているのです。人に何かをしてあげたことで、相手から期待などを過剰にしていた為に相手から見返りがないとがっかりしたりしてしまうことでしょう。それがトラウマになり見えない傷になることもあるでしょう。
人は赤ちゃんの頃は悩みはありませんが、年を取るごとに悩みが蓄積されます。
人によっては幸せということでさえも悩みの種になってしまうことも、実は当然なのです。それは、肉体と精神で作られた人間は一秒、一秒と変化しているのですから、成長することは最終的には「死」を学ぶ必要もあるでしょう。
自然界を見て分ると思いますが、桃栗なども3年という時間を経て、成長期の時期になるでしょうから、それを短縮すると1ヶ月、1日、1時間、さらに1分の間も変化しているのです。
ですから、人間も変化していて当然でしょう。肉体が変滅しているが、魂は悟る必要があるでしょう。
このスピリチュアル・ブームで仏教のお線香くさいお説教を聞くよりも外国の思想を学んでいる人も多いようです。エンジェル・ブームもそうですが、このスピリチュアリズムの思想の由来はカバラ発祥地のキリストの教えがほとんどベースになっているだけでしょう。エンジェルも旧約聖書の中で昨日、今日の新しい物でもありません。このブームで聖書も読んだことがなさそうな人がスピリチュアル・カウンセラーだと言っている人をここ数年間で多くみかけるようになりました。特に日本のHPなどではスピリチュアルという外来語で何でも、スピリチュアルで片付けられるほど、このスピリチュアリズムは簡単ではないと思います。
私はここに来てから、キプロス正教を学び続けています。キリスト教は勉強したが、聖書を読んだから聖書の意味が分かるわけでもないし、理解したからと言って、それは悟りでもないだろう。
知識があるだけで、仏教もキリスト教カバラでさえも、一番大事なのは瞑想が一番厳しい修行だろうと思う。頭で考える知識人は本を読んだことで、理解した、分ったということで自分は悟ったという人も見かけるが、多くの聖人達は何度も悟り続けているから、一回切りの悟りは悟りではないらしい。
ここ最近のスピリチュアル・ブームは霊の世界に関心を持つという意味では悪いことではないだろう。神秘的な世界、心霊研究や霊界についての情報を求めている人の数も増えている様子は、これは喜ばしいことでしょう。
しかし、スピリチュアリズムが「キリストの教えを学び直すこと」であることを理解する人は少ないでしょう。霊達から様々な情報を得ても、それは自分自身の道徳成長の為の糧としなければ無意味でしょう。そんなことに気づく人は少ないでしょう。それよりも霊と話せるようになりたい、怪奇現象に接したりしたいだけでは「趣味がひとつ増えた」に終わってしまうでしょう。
仏教でも「八正道」という教えがありますし、キリスト教でも言葉は違いますが、同じ教えがあります。正しく生きることで、道徳的に向上することは私達にとっては辛く難しいことでしょう。でも、努力すれば必ず報われる素晴らしさ、そして、その苦しみから解放された喜びを分かち合えてこそ、一つの魂として、この世に生まれた意義を実感出来るでしょう。

「科学的」に証明されなければ理解出来ないという人たちもいますが、本来のスピリチュアリズムとは心で感じ「創世主」と繋がりを持ち、さらに「宗教」を学び、苦しくともこの道のりは孤独で暗いトンネルを通過しなければならないかもしれないが、また、その最中にいるかもしれないし、たいして美化されることもないかもしれないが、奥の深いスピリチュアリズムを学べは学ぶほど、道徳的に成長する必要があるだろう。
だから、ブームだけで終わってはいけない。道徳を学ぶのにブームなど必要はない。自分を知るためにも学び続けて行く必要があるだけだ。
新しい形でも、古い形でも、言葉は変化しても創世主に感謝しながら、有り難い教えを実行して行きましょう。
読んで頂き、ありがとうございます。
ありがとうございます。

余談:「キリスト」は普通名詞のギリシア語で、「救い主」という意味です。へブライ語では「メシア」と言い、「油を注がれた者」という意味です。王や祭司、預言者がその職に付く時、頭に油を注がれたところから来ています。