『苦労、困難は本当は有難いこと』

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こんにちは!
いつも読んで頂いて、ありがとうございます。
ありがとうございます。
さて、人間生きていると苦労は増えても、減ることがありません。
そして、その生きる中での対人関係でのストレスは減ることはありません。でも、自分や自分に舞い込んで来る苦労や困難をすべて不幸の種と思ってはいけません。苦しみや悲しみの真っ只中でも、野に咲く一輪の野バラを見て、救われることもあるのです。
今まで、地球に住む私たち人間は、神の力や奇跡に縋って苦しみから逃避していたのではないでしょうか。どんな苦しみでも必ずその人に智慧を齎してくれる仲間や家族や見ず知らずの人からも、助けれることもあります。
その苦しみを一瞬にして失くすことは、本当の意味での真理の追究ではありません。
食べ物や乗り物でも、スピーディを要求される時代ですが、そのスピーディで得た余暇の時間をだらだらと悩むぐらいであれば、料理を作る時間、物を作る時間、そして、乗り物でも、時と場合によっては船でゆっくりと目的地に行く途中に何気なく会話した人との出会いの中で、あなたが苦しんでいることの答えが頂けるときもあるのです。
私が東京在住中に鑑定した男性で「生きがいがないから、何をやっても詰まらない」という裕福な出身の男性に「そんなに生きがいがないとか、生きている意味がないというなら、今年の夏、富士山の頂上に登って来たら・・・。」と言ったことがあります。忘れたころに彼から鑑定予約を頂き、再会したときに、「富士山に行って来ました!頂上から麓とか見ると、人間が登って来ていて、人間って、小さいなぁ〜!それに、登るのも結構大変だったし、登りながら、俺、頑張っているなぁ〜!俺、若い時にサッカー選手になりたくてブラジルに留学したけど、怪我して人生計画が狂っちゃたけど、今回、やれば出来るということを教えてくれて、ありがとうございます。」と楽しそうに話をする最中の彼の目はキラキラしていた。
苦労は若いうちに買ってでもしろ!という言葉が日本であるが、若いうちは物質面で裸一貫になっても、やり直す体力も勇気も備わっている。
海外の若い人たちは大学を卒業する前にバックパックで色々な国を放浪するというのが60年代ぐらいから始まった。その影響を日本でも受けて80年代から海外に出る人も多くなった。しかし、その海外に出ている日本人でも現地の人たちと交流を持つことが意外と少ないような気がする。
豪州時代に対面鑑定で日本人のワンホリさんや学生さんから「どうやったら、現地の人と友達になれますか。」という質問を受けることもあった。
メールなどが普及してしまった為に、人と話す機会が日本でも少なくなって来ている。話すとき、相手の目を見ないで人事のように話す人も増えている。
そんな状況の引きこもり状態に近い生活が続くと、相手の話を聞くのも面倒になる人もいるらしい。御母さんになりたてのママなども、赤ちゃんで四六時中面倒見るよりも、ネットで友達とメールしたりする人もいるらしい。
赤ちゃんは泣くのが仕事であるが、その泣くこえも苦痛になるママがいるらしい。
私たち人間がこの世に生を受けたのも、実践することで、霊的な魂の成長を個々で頂けるが、速く答えを出したからと言って、その質問以外の悩みも増えることもある。
苦労するということは、「カルマ」の清算の為に必要な道と言えるが、そこを通らないで「カルマ」の清算は不可能である。一つ試練を頂き、その試練の道を通ってこそ、私たちは肉体、感情、精神を学ぶことが出来る。我慢することで精神を鍛えることが出来る。「霊的成長」を促すことになるだろうから、苦労はその道を通り過ぎて、あとで気づくと、有難いと思えることもあるのです。
この世に生まれた本当の目的は「霊的成長」ということであれば、この世での生活で苦労する方があの世に帰って苦しむよりも、楽なんです。この世が仮の世界で、あの世が本当の世界なのですから、その本当の霊界でのレベルもこの世でどれだけ、人の為に真理を伝えたか、さらには自分自身の「カルマ」の清算出来たかによって帰る場所も違います。
この世で一番のカルマの清算となると愛する人の死ではないでしょうか。
その死別によってどれだけの人が苦しみ、悩み、もがき苦しむことでしょうか。
私たちが苦しみ、悩むことで「何かの気づき」を貰えます。
苦労を後回しにして、先送りにしてもその試練が増えて行くだけのことです。
同じ苦労するなら、幸せになる為のプロセスだと思い、チャレンジしてみるのも良いことでしょう。チャレンジしている中で必ず、ご自身にご縁のある方達がその苦痛を和らいでくれたり、導いてくれたりするものです。
体験こそがこの世からあの世に帰るときに、持参出来るもののひとつです。
神や天使達にばかりその苦しみや困難を取り除いて貰うとせずに、凛とした気持ちで立ち向かう姿は、必ずその問題を乗り越えることが出来るでしょう。
苦難の体験を善いものと考え、神様や高級霊にたより過ぎても、神様や高級霊はむしろその苦難を乗り越える姿をじっと見ています。その乗り越えるさえに自分ひとりだけが苦労しているのではないのです。
ですから、今、あなたに何かの悩みがある場合は、それだけあなたの霊的成長の為にその苦難を乗り越える為の勉強中と言えるのです。
その勉強はあなた自身の魂の成長の為ですから、あなたが答えを見つける為に考える行為は大変良いことです。
悩みがあるということは、それだけ、多くの霊的修業が出来るという意味でもあります。
さて、私が好きな道元師が中国で修行中にあったおじいさんとの会話にて気づきます。そのおじいさんの言葉のひとつで、「自分の修行は自分がやらねば、誰がやりましょう。そして、今やらねば、いつ やりましょう。」
私たちの生きる地球上には至るところに答えがあります。
必ずしも、他の人がその答えで納得したからと言って、あなたが行く道は違うかも知れません。
宗教も占いなども、私たちが生きる上でのヒントであって、こうあるべきとか必要ないのです。歩いて光の場所まで行くのは、他の誰でもありません。 「あなたなのです!」
ありがとうございます。