お休みのお知らせ

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こんにちは!
いつもありがとうございます。
ありがとうございます。
こちらも少しつづ、朝夕が涼しくなって来ております。しかし、今年のキプロスは目眩がするほど暑かった日が何度かあった。観測史上初の48度という記録も出していた気がする。でも、少し涼しくなるとあの暑さが懐かしい!?
でも、48度という温度はやっぱり、人間が普通に生活出来る温度ではないので、身体に害があるだろうと思う。
さて、8月から皆さんにいつ「お休み」のお知らせを入れるか、保留にしていました。早くお休みのご報告をすると残念がる方もいらっしゃるので、ほんの少しの方にはお話させて頂いておりますが、10月、11月はこちらのブログも更新出来ません。(もし、余裕があれば致します。未定です。)
実は7月の終わりごろから、父の体調が芳しくない。
丁度、旦那が入院中だったので、毎週一回の電話をしていたが、7月は旦那の病気や退院後で2週間ほど連絡をしていなかった。
いつもなら日本の政治の話を電話で元気そうに話す父だが、いつ電話しても誰も家にいないのか、耳が遠いから、テレビ音を大きくしてテレビを見ているのか、状況判断が出来ないから、心配していた。この時期はお相撲を見ているのか?それとも高校野球かな?と思いつつ、コンタクトを取れずにいると、ソーシャルワーカーの方からメールが寄せられた。父が食事を食べても喉に通らずに、点滴に通っているという内容のメールだった。何度電話しても難聴の父は電話が壊れているのか、聞こえないというので、新しい難聴者の為の電話機を父宅に発送して貰った。
それ以降はとりあえず、少し話しが出来るようになったので、話を聞くと係り付けの病院がどこどこの病院を紹介してくれたから、そこに行ったけど、先生の態度が横柄で難聴者の父に不安になるようなことを言ったらしい。
その先生と私も電話で話す機会があったので、話したら、行き成り、「お父さん、もう、長くないですから、至急、日本に帰って来て下さい。」と言われた。癌の転移の説明を電話で言っていた。私が「手術は出来ないのですか?」と訊ねると、「分りませんが、年末まで持たないでしょう。食事が出来ませんから・・・。」と口頭で言われた。私が「末期ですか?」というと、その先生は「いいえ、末期まではないですけど・・・」と、口を濁し始めた。なんで、内科の先生が手術が出来るか出来ないか分からないうえに、簡単に年末まで持たないと言えるのか、疑問を持った。難聴者の父と話すときに、「もっと、大きな声で話して。」と言われて、数時間も父と話していると、身体がぐったりして、最後には頭が痛くなる。それも広島弁で話さないと通じない上に、キプロスの近所の人達は誰かと喧嘩しているの?と思うだろうと思いながら、毎日、父では状況が分らないので、ご近所の方にも話を聞いたりしていた。
本人はどうも「ガン」ということを自覚していなかったようだった。7年前に胃を摘発しているのは胃がんであったが母も私も「ガン」ということは伏せておいた。その後、2年前に膀胱癌だったことも父は自覚していない。それが転移して、今回は胃がんから食道、さらにリンパ線にも腫瘍があるらしかった。それも悪性だから、どれぐらい長生きが出来るか分からない。
その病院だと手術はするかしないか分らないという感じだったので、そのまま、食べれない状態で自宅で亡くなるのを今年中に待つ感じのニュアンスであった。
何度、父にそこの病院よりももう一つの大きい病院はガン患者にも優しく、がん診療連携拠点病院ということもあり、厚生労働省指定の病院に、どうにかして、8月中にそちらに行くことは出来ないのかと聞くと、いつも点滴しに行っている先生はそこの病院への紹介状を出してくれなかったと、のんきのことを言っていた。というか、律儀である。年に何回か看護婦さんにもお医者さんにもチップを渡している父で、今の日本病院はチップとしてお金をとる病院はないのでは?菓子折りでさえも拒否するお医者さんもいるのに、父の通っている町医者の先生の紹介は無理だという。「どうして?患者が選ぶ権利がないの?紹介状なんか無視して、お願いだから、もう一つの病院に行って、そうじゃないとお父さん・・・。」と言うと「そこの先生が首を横に振っているから、そこじゃないと・・・。」私は母の時の横柄な態度も過り、それに人の命を老人だからと言って、かなり横柄な態度なんだろうと思った。
毎日、電話をして、お盆明けにもうひとつの病院に行くだけ行ってと説得した。
その日に電話を入れたら、即入院して欲しいが、最初に指定された紹介状を貰って来て欲しいという話だった。市役所の役人さんの立会いで紹介状を貰いに行くからと元気そうに父は話していた。そして、8月の終わりにキャンセルが出たので、胃がんの手術をして頂いた。父も私もある程度覚悟が出来ていたが、父は「寒いときに死にたくない」という鹿児島出身の父はまだあの世に行く準備が出来ていない様子であった。
私が父だけの心配をすれば問題がないが、父とは若い頃から因縁の仲の兄が近くにいる。兄は母の死の際に一度、悟っていたが、閉じてしまった様子である。
2年前に市民税を払いに行った際に、若者達に暴行を父は受けた。そのときに、頭を殴られた為に、病名は忘れたが段々と記憶が薄れて行く症状だった。そのときに、私が心配だったので、兄に「近くに住んでいるのだから、見に行って欲しい」と頼んだ。すると、「そんなに心配なら、お前が帰って見に行けば良いだろう!」という話になった。「えぇ〜!そんな親子なんだから、見に行くぐらい良いのでは?お願いだから見に行って欲しい」と告げると、「お前はしつこい!」と電話を切れた。だから、身近に住んでいても身元保証人になりたくないとまで言われた。2年前に帰った時も、父が亡くなったら夫婦墓として造ったお墓に父を納骨する予定でいたら、そうさせないと喧嘩を売られた。でも、あのお墓は母が亡くなったときに、父と私とでお墓をたてた。どうも自分が死んだときを考えたのか、凄い剣幕で怒るので、父にその話をして、私が日本にいる間に新たに違う場所にお墓を建てることにした。
今回の父の入院のことも告げないでいた。すると、行き成りメールが届いた。
何だか至急に連絡をするようとのことだった。
私は次の日になってそのメールに気づいた。それで、用件なども書いてなかったので、父のことかと心配になった。因縁の二人は会うと犬猿の仲で喧嘩になる。私は歳の離れた兄と父の喧嘩を子供ながらに何度も見てきた。
人に迷惑をかけたくないという父とは裏腹に計画性のない性格の兄から、父が病院に行く際に近所の人にも兄家族には隠密にして欲しいということだった。
しかし、小さな田舎町であれば、人の噂で父が病院にいることが知られてしまったのか。とはらはらしながら電話をかけたら、どうも自分達家族の悩み相談だったが、その相談の内容には、兄の娘と婚約者を父の面倒を見るという理由で一緒に住んで貰えるか父に聞いて欲しいということだった。
父が入院中ということは近所に住んでいても知らない様子だった。
金銭的に余裕の無い姪っ子と婚約者が父の年金と無料の家賃をあてにしている様子は、すぐに分った。しかし、どう考えても忍耐力のない孫にあたる夫婦達と父が住めるわけないではないか。
それも胃がんの手術前には、体重が40数キロしかないと言える衰弱している父を感情的にさせたいのか?と腹が立った。父は一人暮らしで寂しい思いもしているかも知れないこの5年間をお金を借りに行くとき以外は、親子じゃないと言い、私よりも一回りも上の義理姉は、あの家に住みたいから、お父さんと仲良くしたいといい始めた。えぇ〜!20年以上の溝が埋まるのだろうか。と私は不安になったが、この因縁関係は父と兄との関係だから、兄家族が一緒に住みたいというのであれば、私は「臨終の前に会いに行って欲しい、そして、来世で形を変えて和解するのが良いのではないの?」と、思い兄にはそう言ったが、旦那とも話して、父と兄が和解をしたいなら、私はその言葉を父に伝える必要もあるだろうと思った。
入院中に病院に兄にお見舞いに行った方が良いか、父の体調も考えて、病院でソーシャルワーカーの方に退院後の父の今後を考えて、父が体調が良い日にこの話をして貰うように頼んでおいた。
いくらお金目的と言えども、父がそれを受け入れるようであれば、私はそれで良いと思った。しかし、掃除をしない義理姉が大所帯で20年以上も一緒に父と暮らしたことがない人達が身体の弱い父の面倒を見れるか定かでなかった。
8月の急遽病院に入院する前に父は私の都合も考えてくれて、帰って来ても、また直ぐに帰って来ないといけなくなるから、帰って来なくても良いとのことだった。
しかし、この兄家族のことをソーシャルワーカーの方が伝えた後に、凄い感情的になり、娘に断るように伝えて欲しいと言ったという。穏やかな父があまりにも感情的になったので、ソーシャルワーカーの方も驚いていた。
そんな状態なので、父の意思も分らないし、私としては金銭的に余裕の無い兄家族が押しかけて金銭面での援助を理由に喧嘩になったりすることもあるだろうから、今後のことも考えて、慣れない田舎に2ヶ月ほど帰り、どれぐらい生きれるか分らない父と2ヶ月ほど仲良くしたいと思っています。
少しの間、親孝行して来たいと思います。
この世で私自身は他の人の為にスピリチュアルな貢献が出来れば良いと日夜頑張っております。
でも、一番身近な両親とは私が長い海外生活の為にそれほどの因縁はない様子ですが、精神的な悩みごとや公的な悩みごとになると、私にお役目がやって来ます。
家族の悩みはこの地球上に転生して一番業が深いと思います。
だから、その業という修行はなかなか自分が思う通りにいかないことをやり遂げる必要があるのだと思います。
自分に繋がる人たちが幸せになって行って頂ければと願う。しかし、その幸せになりたいという基準が違うと、そこで摩擦がいくら家族でも、友達でも、夫婦でも出てくるだろうと思います。
しかし、この世で思うとおりになることがないからこそ、悩み、それを解決できればと願います。
そして、それを乗り越えて、自分が少しでも、そうした苦しみを受け入れて行けるだろうと思います。
少し受け入れることで、少しだが、修行しているでしょう。
そして、その修行は少しずつ、自分の心を愛で満たす何かの気づきに繋がることになるでしょう。自分が幸せになって、愛を広げる為に、他の人に何かの形で貢献出来ると思う。
そのために、この世という場所に修行に来ているのだから・・・。
長文を読んで頂き、ありがとうございます。
ありがとうございます。
☆9月の下旬まで、まだまだ書ける機会があれば、綴って行きます。今日はとってもプライベートなお話でしたが、これも私です。
ありがとうございます。