苦労は買ってでもしろ!

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こんにちは!
いつもありがとうございます。
ありがとうございます。
すでに今年も9月ですね。丹波哲郎様の命日も再来週のお彼岸の時期にお迎え致しますね。
私の誕生日は来週なんですが、とっても複雑な日になっています。自分自身の誕生日というお祝いして頂く日が6年前から変化して、前夫が私の誕生日の日に合わせて誕生日プレゼントとして亡くなってしまったので、やはり「命日」という日は寂しいものです。丁度、前夫が東京の病院で入院中の際に起きたNYのツイン・タワーの出来事、結構関係者があのビルにいたりしたので、そちらの方もはらはらドキドキでした。私が仲良くしていた生徒さんの一人の親友の旦那さんもあのビルで一番天辺でその前の日まで働いていました。
その前の夜は皆からの送別会を開いて貰った後の惨事でしたから、すべての同僚を失ってしまったということになります。
ある人で助かった人の話では、必死で階段を下りて行くときに、すでに亡くなっている人を足で踏みながら、ドアのノブに固まった手をほどきながら、下まで、家族の為に生きなければというので、やっとの思いで下に行き、灰で真っ黒になっているから、近所のホテルに入ろうとしたら、「ノ〜!」と拒否されたという話を後で話してましたが、そのホテルは最終的に潰れてしまいました。
多くの人達の命を奪っていますが、あの後から、地球人の考えが変わっていると思います。私にNYに行って皆さんの心を癒してあげて下さいというお話があったのですが、あの時点では、前夫が丁度他界した後だったので、自分自身に余裕もなかったのと、納骨したのをオーストラリアへ埋葬する予定でしたから、お言葉に添えませんでした。お墓の話になりますが、オーストラリアも火葬なんですが、日本人みたいにお墓信仰もないので同じ火葬でも、小麦粉みたいにさらさらで骨の原型がないので、これこそ本当の灰だと思います。日本で火葬で灰にして貰ったのですが、これが結構重たかったです。これでは、海にまいたり、薔薇園にまいたりすると捕まりますから、もっと小麦粉状にして下さるようにお願いしましたが、日本では駄目と言われてしまいました。オーストラリアのパースのお墓は天国の公園みたいでしたから、ユーカリの木やカラフルな薔薇に囲まれて、鳥達の声も聞こえて、蝶達もひらひらと飛んでいました。こんな場所なら安らかにあの世に近い光景で良いと思いました。
今日はこんなお話をする予定でなかったのですが・・・。
私も人間ですから、元気そうにしていても心身共に苦労することもあります。
でも、前夫の死、母の死を通じて、試練は自分の魂の成長だと思うようになりました。もちろん、試練を受けている最中は無我夢中ですから、ただただ、やらねば!と思うこともありました。私の人生も、障害と苦労の連続だと思います。
そして、若い時はその苦労から逃げたいという気持ちはありました。
例えば、前夫の死の告知をお医者様から受けたときには、覚悟していなかっただけに「どうしたらいいの?」と悲しい気持ちよりももっと深い寂しい気持ちになりました。
周りからはおしどり夫婦と言われていましたから、仲が良かったと思います。
そのパートナーがこの世から去ってしまうということは、あの世に帰る日は誰にでも、時期が来れば行かざるおえないでしょうが、やはり寂しいものです。
昨日まで、一緒に手を繋いで歩き、一緒に笑い、泣き、喧嘩もしたり、支えあったりしたのに、それが出来ないのか?というやるせなさでした。
時間が癒すと言われても実感が無かった。
でも、お釈迦様の教えの生老病死の「死」を学ぶことになった。
つまり、「死別」という大きな苦行を学ぶ必要があったのであろう。
でも、前夫の死後に色々な不思議体験もした。それは悪い体験でなく本当に霊界があるのだと実感出来る体験を耳や目で知ることが出来た。
だから、「死別」で前夫があの世に帰ってしまったことは寂しいと思うが、この体験をしているからこそ、死別で愛する人を亡くした方達の気持ちも分るし、あの世に帰っている方達の思いもミディアムとして理解出来るようになった。
あの時期は苦しみから逃げれる方法はないかと考えたものである。
何時間も歩いたり、ぼっと〜!としたりした。食べたいという気力もなかった。
このまま、前夫がお迎えに来てくれたらと願ったこともあった。
でも、前夫が「僕が亡くなっても人を導いてあげて欲しいから、リーディングはしてね。」という意識が無くなる頃も言っていたので、泣きながらもあの時期はやっていた。リーディングをしていたから、人と会わざるおえなかったから、お客様が来るから、掃除をしたり、お茶を入れたり、お花を飾ったりする中で生きなきゃと思うようになった。
今の状態であの世に帰っても宇宙貯金の貯金額は乏しいし、あの人はあの人なりの役目を果たしてあの世に帰って行ったのだから、逃げては行けない!
この苦しみには必ず意味があるだろうから、不思議な体験も特別な意味があるだろうし、すでにメッセージは受け取っているのだから、時間をかけてでも、やり遂げる必要があるのだろうと思うようになった。
この苦労があったから、多くの気づきを頂けた。
ある人の本で読んだ薄い体験談ではなく、自分自身に重い、錘を身体に付けられているぐらい身動きが出来なかった時期もあるが、錘を身体から取り去るにも智慧が必要だった。「どうして?」と自問している間は答えは帰ってこない。
ただ、ただ、ありのままの自分を見つめ、この体験こそが大切な試練であり、こころの底から、感謝したり、気づきに変わるまでは、消えないということが分った。
たぶん、この世に生まれて来る前に、「もっと強くして下さい!」と願ったかも知れない、または、満足を与えて下さいと祈ったかも知れない。となると、苦労無しでは、強くならない。ぬるま湯の生活では心を目覚めることが出来ない。
人生は川の流れのように、苦労という障害を交わしながら前に進んで行く必要がある。そこを超えれば、大きな海、大きな湖という新しい場所が用意されているかもしれない、じっと、流れて行く途中に小さな小枝に捉り、苦しむよりは新しい体験が出来る一歩手前だと思える日が必ず来る。
毎日の生活の中でも成長していない人はいないだろう。
さらに、今、苦しんでいる人は、魂の成長の糧になる贈り物を天から頂いているのです。だから、必ず、苦しんだ分、喜びになることを忘れてはいけません。
ありがとうございます。