本当に大事なものは何か・・・。

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こんにちは!
いつもありがとうございます。
ありがとうございます。
昨夜はそれほど寒くなかったので、スピリチュアル・サークルに参加した。
取り合えず、寝なかったので良かった。ギリシャ語でのスピリチュアル・サークルなので、本当は無理なんだが、先生と奥様に参加するだけでも意義があるということで、参加させて頂いている。先々週、あまりにもしんどかったので、旦那だけ行って貰った。その時にいつも来ているメンバーに私の体調を気遣って頂き、有難いと感謝した。
先生の自宅を開放して、元祖ダスカロスの直弟子の先生がスピリチュアルなお話をしている。真面目な会だが、実践は今のところない。
この類の会でなくても、必ず、先生よりも「自分」の方が良く知っていると思う人が数人いる。
勝手にペラペラと口の方から生まれたのではないだろうかと思う人がいる。
誰かが質問しても、常に「簡単な質問だわ〜!」と、他の人が真剣に先生に聞いている話をよそに自分が中心にならなければという日本でいうと「我の強い」人間が多い。日本の若者達はアメリカンナイズされ過ぎて来たために、「我が強い」人が現代の競争社会で勝ち組とか負け組みとかカテゴリーを作っているが、この次元上昇中は「我が強い人」は残念ながら、スピリチュアル・レベルが下がることはあっても上がることはない。「我が強い=エゴが強い」という意味を自分は強いと勘違いしている人を見かける。本当は「芯が強く、謙虚な人」こそが、本当の意味の真理を知っているだろうと思う。
ここ最近、プライベートも含めて、「我の強い人達」に囲まれている気がする。
昨日、カテゴリーとしての言葉が浮かんで来た。そういう人達の特徴は「我、我侭(わがまま)、私(ギリシャ語でエゴ)、WANT(欲しい)、わたしが・・・」等のこの世にいながら地獄界の映像が浮かんで来た。ギスギスしていて、常に競争でも一等で優勝しないと気がすまない人たちが目立っているように思う。同時に他者の為、自然界の動物達の為に自分を犠牲にしても頑張っている人たちもいる。
自分の為に頑張って得た物質はそれなりに楽しく使えるだろうが、分かち合う喜びは知らないだろうと思う。
日本の社会を含めて、人間生きていると自分と他者を比較する時代が「うお座」の時代であった。しかし、今は「みずがめ座」の時代である。そんなに自分と人を比較する必要はない。それに、羨ましいと思う人が大富豪であったとしても、その人はその人のカルマの清算の為にこの世に生きているはずだが、人間として生まれてこの世を生きて行くのは一体何の為かなどと、ほとんどの人はこうしたことを真剣に考えたこともなく、ただ何となく目先のこだけに追われて暮らしているだろうと思う。
ただ単にお金を儲けて財産っを作るということだけが人間の目的ではないはずだと、ほとんどの人が理屈では立派に考えていると思う。しかし、いざ、自分が築きあげた財産や家屋などを持って行かれるとなると、人生の敗北者のように感じる人が多いのではないだろうか。
人間というのは、どん底まで体験をさせられないうちは、どこに人間の本当の価値があるのかなかなか掴むことができないまま、死に至るケースが多いだろう。
そして、ほとんどの人はやれ建物、土地、お金という物質を追い求めることが多いだろう。その為に人を蹴落とし、目の色を変えて、この人と付き合えば、お零れが貰えるとか、何か美味しい話を先取り出来る等の光景を思うと、動物達がえさを求めてさ迷っているのと似ている。動物達はおなかが一杯になれば、その日、暮らしだから、喧嘩をして奪いあったとしても、明日の為に蓄えはしない。そして、喧嘩をした敵とは関わりあわないで生活をしている。
私達は動物でないからこそ、「智慧」というモノを天から授かっている。
お金は、この世では確かに無いよりはあった方が良いだろう。それなりに生き金を使うことで多くの人が救われ、同時にその人たちも霊的な勉強も出来る時間を作ることが出来るだろう。
ただ、そのお金に拘り過ぎると「本当に大事なものは何か」を忘れてしまうから、多くのスピリチュアリストは人里離れた場所で真面目に真理の追究を求めて日夜、精進をしている。必死で奪い取った物は一時期はダイヤモンドの輝きのように美しく、そのダイヤモンドをつけることで自分もこの世で一番美しいと思ってしまうことだろう。しかし、所詮、ダイヤモンドを食べることは出来ない。戦中時代でも、その1億円ほどするダイヤモンドでさえも、時と場合によってはじゃがいも3つぐらいの価値にしかならなかっただろう。ダイヤモンドぐらいに値する宝石も没収されて命を奪われた人間も多くいただろう。やはり、この世を離れたときに持っていけないものは、自分の本来の魂の生活にはなんの価値もないアブクのようなものだろうと思う。
肉体があったころ、必死にかき集めた物もあの世に帰ってしまえば、必要のないことに気づくだろう。そして、「生きて来た自分の人生そのものが一体何だったんだろうとか、後悔してしまうだろう。」
死後、後悔と反省がどれほど死者を苦しめることだろう。そして、結果的に日本という国に現世にてご縁や因縁がある人たちは、「先祖供養」を学ぶ必要がある。
形式的な先祖供養ではなく、本当に先祖があの世に行って貰うためにも、祈る必要がある。キリスト教徒は毎日の生活の中で7割以上の方が祈っていると思う。
朝起きて、あなたは誰かの為にお祈りすることはあるだろうか。
ましてや、朝から感謝する時間はないと思う。
もちろん、朝からお祈りしたり、感謝している人は、そのまま続けて頂きたい。
少し前の日本の家には小さくても「お仏壇」または、「神棚」などがあったはずだ。しかし、最近ではそれらは家が小さいからと言って、無いお家もある。
無くてももちろん、構わないが、「手と手を併せて、家族の健康、家族の幸せ」を願って欲しいものだ。
スピリチュアルという意味を理解していないまま、日本でスピリチュアル・ブームが起きた。その本当の意味をプロで誘導して行かなければいけない自称霊能者が霊に対して幼稚な考えをしている為に、教わる側も「スピリチュアル=前世占い、オーラの色」に拘り過ぎている傾向がある。これでは、遊びの類ではないだろうか。つまり、エンターテーメントに近い。「視得た、感じる!」というのも、未浄化霊であれば、この世にうろうろしているから、視得る人のオーラに入り込もうと常に側にいる。こんな状況では、世の中が平和になるわけがないのではと思う。未浄化霊になる前に、是非に、生きているときに、もっと自覚して「生きていても幸せ、死後も幸せ」になる為にも、「本当に大事なものは何か」を個々で探し続けて欲しいと願う。
特に我の強い(嫉妬心)人は、死んでもその性格は変えられないだろうから、考え方を生きている間に修正して欲しい。そうしないと、死後、生きている人たちにちょっかいを出すことに成りかねない。
肉体あってこを、修正出来るチャンスの時期だと考える必要があるだろう。
肉体は、自分の性格を修正する器を与えられたものと考えてもらいたい。その肉体で修正が出来ない時は、次の肉体で修正をさせられる。これが地球での輪廻転生というカルマである。通常、生まれた時には、前世の記憶を全て失ってしまう。これは、生まれる前の約束である。前世の記憶を持って生まれた人は、役目で来ている場合が多い。ただ、一般の人は死んだらすぐにあの世に行ける、と勘違いをしているようだ。そう簡単には霊界へは行けないのが現実である。霊界に行けない大半の霊は、どうしているのかというと、人間界に同じ霊体として共存する未浄化霊として、さ迷うことになる。
だから、ちょっと霊感が強いと視得たと得意になっている人は通常はこの「幽霊」と呼ばれる人たちを視ていることが多い。
未浄化霊さんたちは、人間にすがりつき、同じ行動を起こす。
蹴ったり、殴ったり、兎に角、引っ張ったりと色々な行動を起こして、何とか人間に訴えことがある。そして、一番訴え易いターゲットが身内である。そういう意味では、先祖ということになる。必ずしも先祖=偉くないのである。あなたが今、突然死んだら、良い霊になれるか考えると良いだろう。善い行いもせずに、霊界に帰れないかも知れない。
そして、ここ最近、アメリカンナイズされてしまっているために、お祈りどころか、先祖を大切にしなかったり、考えもしない人たちが増えていると思う。人生で自分が躓いて、初めて、先祖供養をしようと思う人はまだ良い方だと思う。家族とはこの世で一番似ている因縁同士がリンクすることが多い、そういう意味では、先祖の善悪の行いを、子孫が多かれ少なかれ受け継ぐことがある。そして、同じような苦しみを味わうことも多々ある。
そういう意味では先祖供養がどれほど大事であるか、分ると思う。
早く皆さんがそれに気づいてくれることを心より願う。
ありがとうございます。