身体だけが人間の本質ではない

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こんにちは
いつもありがとうございます。
ありがとうございます。
先々週辺りの地中海も寒波の影響で寒い日が続きました。風がビュー、ビューと寒い音と共にキプロスの山にも雪が降りましたが、あまり積もりませんでした。
それでも、マイナス3度という私にとっては寒い日が続きました。今週はそんな寒さを忘れてしまうほどの温かい日が続いております。日中の温度は20度前後、すでに自然界では鳥達はさえずり、木々や植物達は春の到来を理解しています。
少し前の日本、中国の暦の上では明日が旧正月です。私の祖母は暦で自分でお灸をすえたりしていました。「今日はネズミの日だから、何とか、今日は辰の日だから・・・。」と言いつつ、神道の心のあった祖母でした。とっても小さい祖母でしたが、芯はとっても強かったですね。そんな暦で生活を共にしていたので、我が家ではお正月を2度迎えていました。
そういう意味では、ここキプロスもカレンダーが旧暦で数える為に、イースターは他よりも遅く、今年は4月になりそうです。知人から頂いたアメリカやオーストラリアのカレンダーを見て、「わ〜い、3月のイースターが楽しみ」と旦那に言うと、「今年の復活祭は4月じゃなかった!」と、その時はちょっとがっかりしました。
さて、前置きが長くなると、今日のお話もさらに長くなりそうですので、この辺りで、本題へ移ることにしましょう。
以前、「今死んだら、きっと浮かばれない!」という内容のエッセイを書いております。今日はその延長のお話を致しましょう。
皆さんは肉体というものはこの世でしか使えず、この世でしか必要ないものだということは理解して頂いていることでしょう。
そして、魂の向上、魂磨きということを目的としてこの世に肉体を持って輪廻転生しています。魂の向上の為に苦楽のすべての体験を積んで行くためにも、「身体」は必要な道具であるのです。
その魂は永遠に生きるということを忘れてはなりません。
自分の身体にばかりを気にして生きてはいけません。
それはどうしてか?と聞かれますと、言葉では上手く表現出来ないのですが、肉体にとらわれた続けて生活をしていますと、死んだ後に自分の死が出来ないであの世にいけないまま、この世の空を未浄化霊としてうろうろとしています。
この霊的世界の話は難しいので、今日はやめておきましょう。
人間がエゴや我善し精神を抱いている時代は明らかにこの肉体上の満足こそが幸せであり、人間はその幸福を追求するために生きていると勘違いして来ていると思います。もちろん、今でも、肉体上の幸せこそが、この世の目的だと思って、必死にそれを追求している科学者達も少なくないでしょう。
でも、昔話の浦島太郎の世界と同じで追ってはいけないものを追っているのではないでしょうか。人間の誕生についてさえも、論理だけでは分らないと思います。オスとメスだけの世界だけで、地球上に共に生きる生物が存在出来るでしょうか。そして、地球上で多くの使命を果たさなければならない人間という霊的な生物が生まれるでしょうか。
人間を物質として身体として見ていると、真理は永久にみることは出来ないでしょう。
もしも、死んだ後に霊界に行きたいと願うのであれば、まずは、なんでも目で見ればわかるとする人間の浅はかな知恵を捨てることです。
地球上で共に生きる他者たちと仲良く生きていた時代から大きく変化して、思い上がってしまった人間達の為に、多くの病気が現代社会に不安を及ぼせています。
本来は私達人間など大河の一滴ほどの存在です。しかし、多くの自己中心的な人間達は自分がちっぽけな存在でいてはならないと思い必死になり、人を蹴落とし、人を罠に巻き込んだりと、人を騙しながら、自分さえも騙して暮らしていることに気がつかないでいるのです。
しかし、私達はどんな成功者であっても、有名人であっても、大富豪であってもいつかは死んで行きます。そのことを忘れてしまう人が多いのです。
自分が初めて、重い病気に冒されてこのままでは死んでしまう恐怖を体験すると、誰でも自分の身体はただ単に物質的な幸福を追い求めるためにあるのではないと分ると同時に、生きている身体がどれだけ大事かよく分ると思います。
その体験を味わった人は寿命が延びたことで、今までは物質的な出来事が幸せだと思っていたことから、魂の変化があったために、大事に生きていこうと決意することでしょう。たとえば、末期癌で余命1ヶ月と言われた人や医学や科学では治せないと医者から匙を投げられた人が奇跡的に助かったとするならば、その人は目に見えない世界に興味を持ったり、大自然の法則を心の底から理解出来、自分が生かされていることを実感出来ることでしょう。
自分が自分の力で生きているのではなく、何かによって生かされているのだということがわかることで、人間特有の「証拠」「証明」という理屈など無意味だと知ることでしょう。そして、自分自身がどんどん素直になれるでしょう。まるで昨日生まれた赤ちゃんの心と同じピュアな自分を思い出すことでしょう。
こういうことを理解するには学問や科学を知らなくても、わかることが出来ます。
多くの本を読んだ中から、学ぶことは出来ますが、本当の意味でのわかることは体験からだということを知るでしょう。
もしも、私が病気のことを意識し過ぎて生きて来ていたら、暗い人間になってしまい、出す波動も暗く、痛い、辛い、というマイナスの言葉を使いながら生活してしまい、心までが痛い、辛いとなってしまっていたでしょう。そして、すでに死んでしまって、自分の目的を果たせないまま、あの世に帰り(いや、帰れないまま、未浄化霊としてうろうろと地球上をさ迷っていたかも知れないです。)病気や大事故に遭ったことで、生かされていることに気づかせて頂き、病気=悪いことではないと気づくことが出来ました。考え方がラテン系の母や祖母のお陰で、心の持ち方を変えることが出来たと思います。
肉体がいつかは必ず終末を迎えるのが大自然の法則である以上、病気や死をただ不幸な現象として必死に避けよう逃げようとしてもがいて意味が無いでしょう。
お釈迦様でさえも、生老病死について悩んでおります。この生老病死は肉体上の辛さであって、魂にこの四苦はないのです。肉体への強い拘りの心を解放することです。今日まで生かして頂いたことさえも、奇跡だと感謝することです。
もしも、その心があれば、肉体はただの病気のなすがままになっていくのではなく、見えない世界の人々も霊界から応援して頂き、もしも、これから、他者のお役に立つために生きる意識があれば、人間が使う奇跡があなたへも起きることでしょう。しかし、その奇跡にも拘ってはいけません。拘りは物質的なエゴです。
私達人間が不思議という奇跡と呼んでるだけで、死や病気をただ恐れて逃げ回るだけなく、人間本来の命を理解することで、死は生であり、死は生まれることを理解出来ることでしょう。
そういう意味では、いま、この世にいる人たちにも、すでに肉体を消滅している死者たちも、どちらの体験も大切だということを忘れてはいけません。
どちらの世界の者達も真理を追究して行く大きな役目があるのです。
これからの世界はもっと真剣にその真理を追究して行く必要があるでしょう。
ありがとうございます。