依頼心から自立心へ

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こんにちは!
いつもありがとうございます。
ありがとうございます。
いよいよ、北京オリンピックの開幕に迫っております。
いろいろな問題もありましたが、素晴らしいオリンピックになることを心より、お祈り致します。
選手の皆さんも沢山、金メダルを取って下さい。
応援しています!
さて、時代は確実に変化しています。
私たちは学び深い時代に共存しています。
しかし、椅子に座り、机の前だけの学びや、他者の書いた本だけでは魂の向上と言える学びには繋がらないでしょう。
愛する人との別れ、わが子との別れ、わが子が病気になり苦しみを見る大きな悲しみ、両親との別れ、それらの苦しみは、私たちの心と向き合う為にも、学び、悔い改める機会を用意して頂いております。
わが子が苦しみ、葛藤しているのを見ることは辛いことです。
しかし、わが子が難病になって初めて、神様、仏さま、キリスト様、ご先祖さまと助けを求めても助けに来てくれないときもあります。
御佛も安易に手を差し延べては下さらないでしょう。
自分自身で反省、悔い改めもしない前から、自分では何もしないうちから、誰かに助けて貰うとする人もいます。
これでは学ぶことも出来ませんし、本当の幸福を知ることもないでしょう。
今の世の中は本当に便利になり過ぎました。瞬時に何かをして貰うことを願う人が増えました。24時間体制で商売をしないと赤字になるコンビニ、配達などもスピード化し過ぎていて、注文した物が少しでも遅れると会社に苦情の電話を入れたりする人も増えているようです。便利な物が故障すると、激怒する人なども見かけます。便利になった世の中ですが、いつでも誰かが自分にサービスをしてくれるのが当たり前と思って暮らして行くなかで、私たち人間は横柄な癖を身につけて行っているかも知れないのです。
お金さえ払えば何でもして貰って、当然と思う意識を抑えないといけません。
禅などは、自分で出来ることは、すべてすることが「行」だと教えています。
自分でしなくてはならないこと、自分で学ぶべきことまで、誰かが自分のために親切に手取り、足取りは教えて頂けません。
もしも、そう思っている人がいるならば、あまりにも甘えている人でしょう。
いつも誰かから自分の都合の良いことをやってもらい、そうして貰えなければ、自分は世界で一番不幸だ、可哀想などと周りに当り散らしてしまい、何の反省もないまま、苦情をいうことで、自分が正しかったと思っているだけで、何の学びも出来ず、反省もないまま、ある日、突然、何かの不幸が襲って来ても、他人が不幸を齎したと思い続け、自分自身が人に甘えて生活していたから、それが因となっていることさえ気づかないまま、自分自身が病気になったり、家族が病気になったりして、病院に行ったり、お寺、神社に行ったりしても、解決しなければ、霊能者の所へ足を運び、「お金を沢山払うから、どうぞ、祈祷なり、浄霊なりなんなりとして下さい。」という人は、如何して、そうなったのか、因を知らないままで、その場でも甘えた心を手放すことが出来ず、自分が願うことが出来ない霊能者だと、その人の悪口を言い、次から、次へと霊能者などを探し続けても、反省という心は持ち合わせていないようだ。
もちろん、霊と名のつくものを、娯楽とか楽しみの材料にしているマスコミなども、霊能者と相談者との距離を短くしたことで、厳粛である心霊や死者の魂とかを興味本位に扱い過ぎてしまっている為に、霊能者に依頼すれば、どうにかなるだろう、それも大金を払えば、悪霊も除いてくれるのではないかという錯覚を抱くのも無理ないでしょう。
テレビというものは視聴率が上がれば、面白可笑しく取り上げることもあります。
それがコメディ番組であれば良いのですが、霊魂の世界を扱うようになってしまったことで、視聴率を意識したテレビ側の狙いは物質的価値観でしょうが、本物の霊能者であれば、霊魂は肉体が無くなっても、行き続けることを知らせたい為に、死者との対話をテレビ画面を通じてやるのであれば、良いのでしょうが、興味を抱かせるように制作するようにしている為に、視聴者側の解釈が違ってしまうと、テレビに出ている霊能者に会いたい、会って自分の悩みを相談したいと願うことでしょう。それはテレビに出る霊能者もその方なりに意識して、画面に登場していることでしょう。
本物の霊能者であれば、特別な人間でもなく、選ばれた人間でもなく、道具意識に徹していることでしょう。
普通に何も見えない方がどれだけ、苦しまなくて済むかと思う霊能者もいることでしょう。
心霊現象などは、この世にあって何の不思議でもないのです。
霊能=特別な力をその霊能者が持っていると思っているうちは、その霊能力も、遊び半分で危険なものに過ぎないのです。物を使って霊魂があの世に帰ることが出来るのであれば、お金持ちの人たちは貧困な人よりも幸せであるはずでしょう。
お金さえ払えば、すべての不幸を取り除いて貰えるならば、悩むこともなく生きれるのではないでしょうか。
しかし、簡単そうで簡単ではないのが、霊魂の世界なのです。
人任せに何でも誰かに依頼すれば、誰かがすべてをやってくれるだろう、やってくれなければ、文句を言えば、何とか自分の都合に合わせてやってくれるだろうと願う心は子供が泣けば、親の目を向けてくれるという意識と同じです。
私たち人間以外の動物たちは、不平不満も言わずに厳しい自然界の中で、それぞれが懸命に、尚且つ、素直に生きています。
動物たちの親は人間の親と違い、ある程度の時期が来ると生きることの厳しさを肌で感じさせます。甘やかして育てて、苦労するのは子供なんです。
人間が人間として生まれたことも、当たり前ではないのです。
そのことに対しても、感謝する必要があるでしょう。
今年もお盆の時期が近づいて来ております。
先祖があっての、私たちです。
今、生かされていることを喜び、感謝し、日々、精進して行きましょう。
ありがとうございます。
合掌

プチ・知識 お盆の歴史と由来
お盆は仏教における盂蘭盆会(うらぼんえ)、または盂蘭盆(うらぼん)を略した言葉とされており、7月15日(または8月15日)に行われる夏の御霊祭です。
むかし、お釈迦様のお弟子様である目連様の母親が餓鬼道に落ちた時、お釈迦様の教えに従って多くの高僧たちに供養し、母を救ったところからはじめられたもので仏様や先祖の恩に感謝し、そしてしのぶ美しい行事なのです。


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幼いころ、夏休みになるとこの「大文字焼き」をみていました。
お盆に行われる京都の伝統行事「大文字焼き」。正確には「五山の送り火」と呼びます。その期限は、平安時代とも室町時代とも言われ、お盆に帰ってきたご先祖の魂を再びあの世に送り出す「送り火」と同じ意味があります。
京都の人々に親しまれている伝統的な宗教行事です。
ありがとうございます。