お別れの日まで  不思議な葬儀

「ワシは絶対に出ない」と言っていた兄は義理姉のお父さんが入院している病院へ「洗濯物を持って行くから、何かあったら電話してくれ」と言って、病院を後にした。
私は携帯でキプロス時間をチェックし、主人Mに父が亡くなったことを知らせた。
主人が来る日と父の葬儀が重なることになったので、関空に着いて私の実家まで一人で来れるのかと心配だったが、大丈夫だろうと思い。その後、葬儀屋さんが病院にお迎えに来て下さったので、霊柩車で会館へ移動。
年内は父の容態も安定しているとお医者さまが仰るので、兄宅に預けていた葬儀の見積もり表を姪っ子に持ってこさせ、兄も葬儀デレクター(最近はそう呼ぶらしい、10年経つと葬儀も鮮麗されたイメージなのか、家族の死を体験したことのない若いスタッフの方が故人を商品のように扱うように感じた。)
「お坊さんを何人お呼びになりますか?」と聞かれたときには、沢山のお坊さんにお経を上げて貰っても、本人のこの世での修行が満たされてなければ、意味が無いだろうと思いつつ、私が口を濁していたら、兄が「一人でいいに決まっているだろう・・・。」と言った。
葬儀の見積もりの際は、あれもこれも「こちらで致します。」と言っていたが、最終的には火葬許可届けも、のんきに私が「市役所に火葬許可届けを持って行ってくれましたか?」と聞くと、「午後から行く予定でいます。」と言われたときには、「午後から行っていたら間に合わないのでは?」と聞きなおすと、「大丈夫だと思います。」と言っていたが、別件で市役所に行く予定でいたので、「だったら、自分達でやります。」と言って、その会館に行き、市役所に移動した。
兄に私は火葬許可届けはお願いして私は別件でバタバタしながら、階段を登ったり降りたりしていたら、兄が「あいつだったら、絶対に火葬許可届けが出せなかっただろうな。」と言うので、「どうして?」と訊ねると、「父の本籍地が違っていて、ワシが覚えていたから、良かったけど」と言うので、「えっ〜、どこ?」と聞くと、「XXX町のXXX」というので、「それってどこ?私は住んだことないよね?」というと、「お前は生まれていなかったときに、住んだ記憶があるけど・・・。ワシ以外はこの本籍地言えるヤツはおらんな?市役所の人もパソコンで見れるようだけど、その住所を言わないと許可は出せませんとか言うし・・・。」と一人でブツブツ言っている兄にまだ確認していていなかったので、「だから、葬儀には出てくれるよね。」と訊ねると「あ〜。」と一言。
お坊さんに連絡を入れたり、あまり交流のない親戚に連絡入れたり、ご近所の人に連絡を入れたり、兄達も近所に住んでいたが田舎は班という形式があるらしく、同じ班で無い場合は名前と顔が一致しないらしいので、私が「この人誰だろう?」と父が綴っている連絡先の大学ノートを見ながら、義理姉達に尋ねると「知らん。誰かね?」と分からないらしい。
通夜をするかどうか兄と話して、親戚とも私たちも母が他界した時点で交流がないし、ご近所の方のために、豪華に葬儀をする気持ちは兄も私もなかったので、枕経をあげにいらっしゃったご住職に出来れば葬儀の日に納骨もお願いした。
ご住職はなぜか私の主人が日本にいつ来るのか気になったのか、何度も「ご主人はいつ日本に来るの?ご主人の名前は何て仰るの?」としきりに聞かれて、父の葬儀と関係があるのか?と兄が住職が帰った後に文句を言っていた。
姪っ子がご住職がひそひそとスタッフの人にどれぐらいお布施をこの家族は貰えるのか聞こえたらしい。
兄が通夜も遣らないと言ったから、通夜もしない家族からはいくらぐらいお布施が貰えるのか気になったのかも知れない。
兄が「今夜はお前とだけとゆっくり通夜がしたい。」と言うので、お泊りする用意が必要だから、自宅に行って、兄宅に荷物をおいて、兄の住んでいる行き着けの居酒屋で二人で飲むことにした。
私は父に可愛がられていたので、兄が父を憎愛する気持ちは何となくしか分からないが、兄は兄なりに、父を愛していただろうけど、同性同士だと波長が合わないこともあるんだろうと思えた。
私が「生まれ変わるたびに、ヨっちゃんの縁で生まれると辛い体験ばかりするから、来世からは友人とか、知人ぐらいの縁にしておきたい。」と言うと、兄は「そういわずに、何回もワシと家族として生まれ変わってくれ。」と言うので、「霊界に帰って考えるね。」と私が返答すると、無言で寂しそうだった。
今まで吐き出したかった父との思いを兄は焼き銀杏を食べながら、夜遅くまで兄の話を聞いていた。
葬儀の当日は喪主である私は人よりも早く行かなければならないので、前夜、タクシーを依頼して電話を切った後に兄から「明日、迎えるに行くから、準備しておけ」と電話があり、「時間通り来てよ。」というと、「大丈夫。ワシとXX(甥っ子)が迎えに行くから時間よりも早く着くから、着いたら電話する・・・。」と言って、葬儀の前夜は疲れきっていたので、逆に葬儀の日に早く起きれるかと思いつつ、寝た。
しかし、私が寝ようとすると、父が現れたりしたので、葬儀の当日は寝不足だった。
葬儀の当日は瀬戸内海にしては冷え込んでいた。
父宅は今だ井戸水を汲み上げる水道になっているので、日が照らないところは凍っていた。
冷たい水で顔を洗い。コンビニのおにぎりをひとつ食べて、夜はみんなで食事をした後ぐらいに主人が新幹線に乗って、兄の引っ越した町に来る予定だったので、駅から近いホテルを予約していたので、お泊りの用意をしながら、寒い部屋で朝のニュースを見ていた。
かの有名な独裁者の国葬の日と重なった。
朝の10時からの葬儀にしたので、まだ日が照っていない冷たい空気が身体にしみた。
礼服に着替えて、すこしお茶をしていたら、受付嬢を担当して貰うために姪っ子たちが会館に到着した。
私が姪っ子に一礼の説明をしていたら、ご住職よりも先に父に40年以上前にお世話になっていた会社の娘さんと仰る方が「看板を見たので、こんなかっこうで許して下さいね。」と父に挨拶して下さった。
私たちもまったくご近所の方でも、一人、二人ぐらいしか知らないので、ご住職がお越しになったので、ご挨拶しに控え室に行って帰って来たら、バタバタと多くの方が同時にお越しになられた。
姪っ子に指示をし、私がお一人、お一人に挨拶をしていたら、ご住職が父の棺の場所にお越しになられた。
ご住職は足が悪いようなので椅子を用意して貰っていた。
私も海外生活が長い為、正座する機会がなく、足が悪いので椅子を用意して貰っていたら、兄も椅子に座ることになった。
厳かに葬儀は始まり、お経をあげて下さっていたら、横にいる兄が突然に大きな声で泣きじゃくり始めた。大粒の涙、鼻水もずるずると流れていた。
私自身は何度も父の容態の変化で涙を流していたので、兄がここまで泣いていることに驚いていた。
ふと、祭壇を見ると、蝋燭が大きく波打っていた。
母も参列していることを実感した。
何枚ものティシュで兄は涙を拭いていた。
兄が泣くのを終えた後に、「ご焼香です。」と喪主の私から順番にご焼香を始めた。
私の次は兄の番、そして、義理姉、その隣に姉のサー子が座っていた。
導師(ご住職)が「南無〜南無〜陀ブツ〜」とお経を唱えている中、
姉の番になったときに、姉は行き成りサンドルウッド(白檀)を鷲づかみ、すこしずつ、もこもこと立ち上がるチャコールの上にばさっと投げ入れ、行き成り大声で「アーメン!」と言った後にクロスをきった。
私がサー子を見ると、さらに2度目白檀を手に一杯取って、バサっと、チャコールの上に投げ入れ、再び、大声で「アーメン!」と十字を左から右へ、きっていた。
さすがに導師も隠れキリスタンがいたのかと驚いた様子で、びっくりした様子で咳き込んでしまっていた。
サー子としては、三度したかったようだが、義理姉が手を押さえていた。
部屋中、ビャクダンの煙で一杯になった。
私も、兄も、笑いをこらえるのが精一杯だった。
サー子を見ると、ちょっと、不機嫌な顔をしながら、ぶっすとしていた。
やっと、笑いがおさまったときに、「初七日のご供養もご一緒に」とご焼香を再度、私から始めた。
サー子の番になったときに、義理姉が三本指で白檀のお香を取り、眉間に持って行き、こんな感じで行うという無言の説明をしていた。
サー子は仕方なく義理姉が遣ってみせてくれた様子をゆっくりと3回遣り終えると、大声で「お父さんの事、よろしくね!」と言いながら、「良かったね〜」と数回繰り返して言っていた。
無事、葬儀を終えた。
斎場に姉を拘束するのも大変なので、姉が私の側に来て、「ありがとうね〜。」と言って、握手とハグをして、お別れすることになった。
私が父の写真を持ち、兄は父の棺と一緒に霊柩車に乗るのは嫌だというので、姉に納骨の壷を持って一緒に車に乗り込んだ。
御越し頂いた方に、お礼を申し上げ、ゆっくりと車が発車した。
斎場がある場所は山の天辺で風が冷たかった。
父の御遺体を焼く場所にも名前があるらしく、「さつき」だった。
姉が通っている作業所と同じ名前だったので、兄と私は顔を見合わせていた。
待ち時間の間、兄に「さっき、お母さんが憑依していたみたいだけど・・・。」と訊ねると、「おおじょうしたは、行き成り、おかーが来て、のり移ったと思ったら、ワシの身体を借りて泣き始めて、ワシは全然、悲しくもないのに、最後には、ヨシカツ、もー、ええんよ〜、お父さんはお母さんが連れて行くからね。心配せんでもえーけね。とか、言って、身体がどっと疲れたは・・・。」と、文句を言っていた。
私が「やっぱり、夫婦なんだね。愛してなんか無いとか、言いつつ、やっぱり、お互いに好きだっただね。」と私が言うと、兄は「どうでもええわ〜。」とむくれていた。
すこし休んでいたら、お骨収めの儀式があるのでと皆で移動した。
お骨を拾うのも三度。
亡くなった日が母が6日、前夫は16日、父は26日だと思った。
私にご縁がある数字なので、霊界に帰る日も決まっていたのかと思った。
その日、納骨を行う予定でいたので、導師に連絡を入れ、父が胃がんで手術をした後に、建てたお墓を見に行くのはその日が始めだった。
坂道が急なところへ、ヒールの靴で上がるのはかなり苦戦した。
ご住職はオートバイクで来て下さった。
「ご主人は何時に来るの?」とまた、聞かれた。
「予定通りでしたら、関西空港に午後5時過ぎごろだと思います。」というと、「あ、そうですか?」と言っていた。
15分ぐらいで終わった。
私がお布施を渡し、お礼を導師に申し上げていた。
姪っ子が「あの、お坊さん、カズコ姉ちゃんが封筒渡したら、にやっと笑っていたよ。」と言うので、「あ、そう。いくら入っているのか分かるのかね。」と言うと、兄が「そりぁ、指で厚みが分かるだろう。通夜なしで、あれだけ渡せばこの不景気では多いほうだろう。」と爽やかそな顔で言っていた。
無事に納骨も済ませ、その足で市役所、病院へ行ったり、葬儀代を支払いに会館に帰ったりして、時間を見ると、もう、午後5時ぐらいになっていた。
車の中から、夕日を見ながら綺麗だと思いつつ、あれこれ、遣りながら、ホテルへ行き、チェックインを済ませて、ベットに横たわっていたら、兄から電話が掛かり、「もう、下にいるけど・・・。」と言われて、降りて行き、「レストラン、予約できたの?」と私が聞くと、「年末だから、どこも忘年会で一杯らしい・・・。」と言うので、数軒、行くと「本日は90分以内でお願い致します。」と言われて、「昼なら分かるけど、夜で90分は少ないね。」と言って、六人中、4人が焼肉が食べたいというので、ある韓国料理店に私たちが行ったときには、一人もお客さんがいず、私たちだけの貸切状態。その夜は私たちだけだった。
私が「供養だと思って、しっかり食べてね。」と言うと、みんなもりもり、ぱくぱく・・・。
「サー子のキリスタンには、驚いたね。」と私が言うと、兄が「あついはしっかり見えてたね。おやじもさー子もキリスト教徒だっただね。前世は。」と言いながら、ビールをゴクゴク飲んでいた。
父の話をしながら、花が咲き、私も主人がどの新幹線に乗ったのか確認出来ないまま、午後6時ごろに、「いま、エアーポートなんだけど・・・。」と私の携帯に電話があり、「ウェルカム TO ジャパン」と私が言うと電話が切れた。その後、1分後に電話が掛かり、「いま、新大阪に行く予定・・・。」と言うので、「いくら公衆電話にお金いれたの?」と聞くと「10円」と言った瞬間にガチャンと切れた。
テレホンカードをどこで買うか伝えていたが、分からなかったのか。と心配しながら、飲んでいた後、ふと、携帯電話を見ると、着信履歴があったことに気づくのが遅すぎた。
どれかに乗って来るだろうと思いつつ、内心ハラハラ、ドキドキしていた。
甥っ子が羽目を外して、飲めないキツイ酒を飲んだようで、酔っていたので、タクシーを呼んで、帰るように言うと、姪っ子は
旦那Mに会いたいから二次会に参加したいと言って、義理姉と4人で、移動しながら、私が「もしかすると今の新幹線かも?」と言いつつ、駅に向かい、後ろから3人がゆっくりと着いて来ていた。
どうやら、次の新幹線に乗ったらしい。
二次会のフランチャイズのレストランに一旦行き、すこし、座ろったときに、「たぶん、この次の新幹線だから、行くね。ホテルに荷物置いて、来るね。」と言って、私はまた駅に向った。
数分待っていると、改札口で駅員さんに何やら聞いている旦那を発見した。
無事に一人で兄の引っ越した町に着いた。
ホテルに荷物を置きに行き、40日間ぶりの再会だった。
「御飯を食べたの〜?」と私が聞くと、「機内で食べた。」と言うので、「兄が待っているから、取りあえず、会いに行こう。」と誘うと、「OK」と言って、歩いて2分ぐらいのレストランに行きながら、「入国の荷物のチェックが厳しかった。この靴をかなり調べていたし、身体検査もされた。」と言うので、「豪州パスポートを使用したからじゃない、何か豪州であったのかもね。麻薬とか運んだりしているとか・・・。」と冗談ぽっく言っていたが、キプロスに向う機内で英字新聞が主人が読みたいというので、貰って読んでいたら、その通りだったらしい・・・。
旦那Mはキプロスに移住する前に日本に3週間ほどいたときに、兄に会ったきりで8年ぶりの再会となった。
午後6時過ぎぐらいから私たちはゆるゆると飲んでいたので、旦那にお酒を勧めても自分達はペースが遅くなっていた。
私がサー子の様子を旦那に説明すると、旦那は目を大きく見開き、「前世はサー子はカソリックの尼だったんだろうね。僕らから見ると身体障害者ダウン症だけど、宇宙や霊界との意識とは連絡が取れる高次元な魂の持ち主なんだろうね。それに、キリスト教で土葬だと、埋めるとき、砂を棺に3回かける習慣があるから、前世の記憶でお坊さんだと上に上がりそうでないから、彼女が代わりに霊界の魂に話しかけたんだろうね。お坊さんにお布施するよりも、サー子にすれば良かったのに・・・。」と言ったのを、兄達に通訳すると、「本当!その通りだ!」と言いながら、みんなを笑顔にしてくれた。
明日は「ワシが耕三寺に連れて行ってやるから、10時ごろには用意して待っておけよ。」と言いながら、旦那と兄は握手して別れた。
ホテルに帰って、私はパジャマに着替えて倒れるようにベットに横たわった。
何時だったか、青いオーラの父が現れて、目を覚ました。
次の日に、兄夫婦が迎えに来て、瀬戸田に向う途中にお墓に立ち寄って貰った。
お花とお線香、お水をお墓にかけて、主人は「お父さん、こんな景色の良いところで良かったね。」と微笑んでいた。
その日から、主人と耕三寺
訊ねた方のHP 
宮島、掃除、除夜の鐘、お年始に兄宅、新年会と送迎会を兼ねて、食事をレストランにて、その後、京都を連泊で散策、長旅の飛行機に乗り、使命を終えてキプロスに帰って来ました。
気持ちはとっても穏やかです。
また、田舎にいるときに、お墓参りの代行、掃除もしているところを発見したので、依頼しました。
ゆっくりペースですが、キプロス生活に慣れて行こうと思っています。
今回、旦那が日本に来たときに、近い将来、日本に住んでみるのも賛成してくれました。
お気遣い頂き、メール、メッセージ、お電話等下さった皆様には、心より感謝しております。
ありがとうございます。
カズコ
合掌
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